2008年12月25日 (木)

お知らせ

心身ともに疲れ、もう少し真面目の研究生活に取り組みたいと考えまして、ブログをやめようと思います。

このような駄文ばかりの弱小ブログを定期的に読んでいただけた方々もいたようで、大変嬉しく、日々の糧となっておりました。皆様どうもありがとうございました。

しかし、少々疲れました。私のような不精者としては、よく続いたなとも思っております。

また性懲りもなく、再開するかもしれませんし、まったく別の場所、別の名前で始めるかもしれません。しばらくの間はこのまま放置しておくつもりですが、再開しなければ、そのうち閉鎖すると思います。

本当にありがとうございました。皆様の健康と幸せを願いつつ。

筆者

LÄ-PPISCH「ハーメルン」

| | コメント (19) | トラックバック (0)

2008年12月11日 (木)

植原悦二郎『日本民権発達史』その2

第二章 明治の新政府

本章は、東京奠都と五箇条の誓文から始まる。植原によれば、前者は京都の住民と公卿の他は大して重要な問題とされず、後者も後年「我国の歴史に於いて殆ど革命的異彩を放てる重大な出来事」となったが、当時の国民一般から注目されなかったという。さらに後者は、歴史家、憲法学者らが我が国立憲政体の根源と主張しているが、そんなものではないと言下に否定する。

植原によれば、五箇条の誓文「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は単に新政府の諸藩士が佐幕派から単なる政権簒奪との嫌疑を避け、国内統一を共に協力して新政府を設立しようという熱意と誠意を天下に公表しようとしたに過ぎず、議会政治設立の宣言とは関係ない、ということである。本書でも述べられているが、周知のように後の民権派や大正デモクラシーの運動家が自分たちの主張の正統性を示すために言及したのが五箇条の誓文であり、さらに下って第二次大戦後のいわゆる「人間宣言」で昭和天皇は日本にも民主主義はあったことを思い起こさせるために冒頭に引用したということを念頭に置くと、民権の発達を説く書としても大正期のデモクラット植原のイメージからは意外な感じがする。この感は、植原同様にリベラル派の斎藤隆夫も著書『帝國憲法論』で述べていた時にも感じた(後の斎藤は日本の「國體」を表すものとして五箇条の誓文を挙げているが)。もっとも歴史的には植原の解釈が正しく、議会政治や民主主義を五箇条の誓文から取り出すことは政治的アジテーションに過ぎないが、さらには植原のこの著書は、日本の民権は上から与えられたものではなく、民衆が勝ち取ったものだと強調するための著作であると序文に書いてあるから、安易に政府側の声明に正当性をおくのは戦略的に望ましくないと考えたのだろう。そのあたりに、明治期の専制政府、昭和期の軍国主義との対決の中で正統性を天皇に求めて説得するという時代背景と、大正期の獲得するという意思との相違が表れているのかもしれない。

また、政府部内において立憲政体なる問題が主張されるようになったのは明治6年ごろの木戸孝允の建議書としているが、議会制自体は幕末以来の懸案事項で政府内で共通了解であるし、憲法に関しても明治4年の岩倉使節団に参加した時から木戸の調査目的となっていたことは周知の通りである。もっとも民選議院という発想は、現実的政策目標として現れていなかったのはいうまでもないから、植原の発言も間違いではないだろう。

第三章 民権運動

民権運動の嚆矢は、征韓論をめぐる政府内の分裂から、板垣退助らが民選議院設立の建白書を提出したことにある、というのはよく知られているが、これに関しても植原は冷淡である。「這は征韓論の為めに敗北せし在野党が、世論は彼等の主張に同情して居つたにも係はらず、其主張の貫徹せられざりしことを憤激して、在朝有司を攻撃し、世人に訴へて其鬱憤を晴さんと企てし一手段であった」として、そもそも板垣、副島らは武断国権派で、政府の分裂がなければ、民選議院の話などでなかったであろう、と述べている。また明治14年の政変の大隈重信も自らの財政政策の失敗により低下した声望を高めるためと論じているあたり、あくまで明治新政府主導の民権発達を否定し、板垣・大隈という後の二大政党の首領の神話を否定して現実的な権力関係による政治過程を述べるというところに植原の歴史叙述の特徴があるように思える(つづく)。

にほんブログ村 本ブログ 歴史書へ←クリック願います。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

猪瀬直樹『黒船の世紀』文春文庫、1998年

近年では、道路公団民営化推進委員として行政改革にあたったり、現在では東京都副知事となり、ポスト石原の最有力候補とまでなった著者だが、出発点は明治大学の大学院で橋川文三に日本政治思想史の指導を受けた人物であり、日本近代史をテーマに扱ったノンフィクション作家であった。

本書は、その恩師である橋川がユーラシア大陸を挟んでの人種戦争の問題を精神史的に追った作品『黄禍物語』に対応するように、太平洋を挟んだ人種戦争の言説をフォローした精神史となっている。水野広徳とバイウォーターという元軍人であったりスパイ経験のあるジャーナリストの軍事知識に裏打ちされたリアルな日米未来戦記と、池崎忠孝とホーマー・リーという屈折した秀才の世間的名声を得るために大衆を煽動するようなそれとの二大潮流があり、後者が勝利を得ていく大衆消費社会のゆがみを描いてくれる。「軍人が国民を引きずったのも事実だが、世論のほうも軍人の思惑を越えて戦争を呼び込んでいたのである」という一文は、正統的な歴史叙述からは脱落してしまうところを拾い上げている。

こういう社会史的な側面とは、歴史教科書に載りにくいので30年も経つと忘れられる。本書で述べられる1908年(明治41年)の米国大西洋艦隊の周航で日本に来日した際の日本の歓迎振りは、ニコライ遭難時の半狂乱したような自粛ムードと同様に恐怖の裏返しだったという。歴史研究者の目で見れば、政府も新聞も「歓迎一色」であり、それを米国に対する恐怖と取ることはできないらしい。しかし、このいじらしいほどの歓迎振りは恐怖の裏返しと見た方が正しいような気がする。もちろん、政府当局者は諸外国で見られる日米戦争必至論を打ち消すためとの演出であろうが、それも恐怖の裏返しともとれる。その直後に、英国を仮想敵国とした連合艦隊大演習が行われている事実が物語っている。ある意味、北京オリンピックの聖火リレーで反対運動が巻き起こった今年の状況というのは、歓迎一色よりも健全な日中関係の裏返しだったのかもしれない。

本書は、水野広徳、ホーマー・リー、バイウォーター、池崎忠孝の評伝として読んでも面白い。水野が第一次大戦をイギリスにて間近に見たことで反戦平和主義者になったというエピソードは面白いし(軍拡主義者であった時の『此一戦』の描写でも十分に反戦の著作になりえる)、芥川龍之介への対抗意識から抜け出せなかった池崎の滑稽さも興味深い。文体を変えれば、博士論文にもなり得た本作にて、猪瀬氏への認識を変えたが、お忙しい現在の氏にはもうこれ以上のものは書けないんだな、と思うとさびしい。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ ←クリック願います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 6日 (土)

植原悦二郎『日本民権発達史 第壱巻』その1

植原悦二郎は大正・昭和期の政治家。前半生は、米国・英国への遊学・留学をし、帰国後は私大を中心に政治学・憲法学を講じ、天皇には統治権はあるが、主権は国民にあるという国民主権論を提唱した。これは親交のあった石橋湛山にも影響を与えた。その後、1917年犬養毅の求めに応じて、立憲国民党から衆議院選挙に立候補し当選。衆議院副議長まで務めたが、翼賛選挙では落選。戦後、鳩山一郎らと日本自由党を結成し、第一次吉田茂内閣で国務大臣として初入閣した。現行の日本国憲法には国務大臣として憲法改正案に副署しているが、非武装規定、衆参議院の同質性、地方自治制度の財源問題、憲法改正が困難というような論点から不賛成である旨を閣議で訴えたが、幣原喜重郎にたしなめられ、しぶしぶ署名したという。

そういう人物が、1916年(大正5年)に上梓し、1958年(昭和33年)に日本民主協会から再刊されたのが本書である。全5巻だが、後半はどうやら植原の筆ではないらしい。とりあえず、読んだ部分をメモ代りに少しずつ感想を書いてみる。

第一章 明治維新の政変

植原は、まず天皇の歴史から書き起こすがきわめて簡単に、最初期の天皇は政権を左右する軍事及び祭祀の実験を握っていたが、時代の推移と共に天皇の近親者に権力が移り、後に武士に統治権が左右されたというように「君主が親しく政権を左右し給ひし事実はないように思われる」という。しかし、一方で「名義上の統治者であった」ことから「政争以外に超越して泰然と在ましませしことと、皇室の連綿たりしことには、深き関係がある」と皇室の存続を願う者はその点を留意すべしと注意を促している。

徳川政権の特徴は、地方分権の専制制度であり、各大小名に領土内の統治権を付与し、封建的地方分権を確立していたが、一方で巧妙なる間諜組織によって、つまり外様大名と譜代大名、譜代大名間の相互監視による牽制を通して統治したことにあるという。それが我が国民の「陰険なる性格、熱烈なる嫉妬心及び島国的根性」を育てたという。

植原は維新の原因を「智的運動」すなわち学問の振興によるという。儒教的大義名分論による史学や国学の誕生による天皇の浮上、洋学の発展による鎖国主義の不可能性など。とりわけ前者の問題に関して、何故幕末期に政治的シンボルとして天皇が浮上したかは今もってもよく分からないそうだが、明治・大正期の歴史観においては儒教とりわけ朱子学の大義名分論が徳川統治を揺るがしたというイデオロギーの側面を指摘するものが主流派を占めていたのかもしれない。フランス革命を「ルソー主義」に原因を求める加籐弘之なども同様の歴史観を有していた。

植原によれば、幕末期の諸政治勢力=攘夷党、開国党、王政復古党や佐幕党も含めてすべての勢力が国内の統一、つまり封建的分権制度の改革という点で一致していたという。当時の欧米人の見解として、名義上統治権が天皇に奉還したとはいえ、軍備も財源も乏しい中央政府に何故諸藩は転覆を企てなかったのか、また財政的援助を惜しまなかったかに疑問を有していたという。しかし、外国からの圧力への恐れが、当時の人々には共通した認識としてあって、とにかく皇室を中心とした国内統一が至上命題だと考えられたから、だと植原は述べる。

また攘夷党が何故開国主義に移行するのに納得できたかといえば、神の如く思われた天皇が夷狄と見なされた謁見したという事件が影響したと植原は述べている。(つづく)

にほんブログ村 本ブログ 歴史書へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 3日 (水)

DS『采配のゆくえ』コーエー、2008年

関ヶ原の合戦を体感できるアドベンチャーゲーム。

主人公は、どうみても20代にしか見えない石田三成。三成となったプレイヤーは、「戦略」のパートで情報を集め、「合戦」のパートで言うことを聞いてくれない戦国武将たちを「説得」することによって、西軍の勝利を目指す。まさに「逆転関ヶ原」なのである。

と、書いてみたのは、私は本作はカプコンの『逆転裁判』シリーズのスタッフが会社をコーエーに移し、時を戦国時代に変えたのかと思っていたら、特に『逆転裁判』のスタッフが関係していたという情報を得ることができなかった。これって、本当に関係ないんですかね。。

ハッキリいってキャラクターの造形や台詞回し、演出、アシスタントに女の子、ゲームのシステムなどまったく『逆転裁判』と同じである。

ユーザーとしては、面白ければそれで良いので、両者の関係を云々する必要はないのですが、でもまぁさすがコーエーというか、歴史上の関ヶ原の戦いをほとんど忠実に再現しているという感じで、歴史ファンや司馬遼太郎『関ヶ原』などを読んだ人にはよくわかる小ネタが仕組まれており、けっこう楽しめる。私は司馬関ヶ原を読んで、三成頑張れと思った者だが、あそこで描かれていた三成はのろしを上げて督促したり、使者を出したり、自ら説得に当たろうとしたりと、一人気を吐いていた。本作はそうした三成のエピソードを巧みに使って、ゲームとしての楽しさを作り出している。

しかし、難易度は最近のゲーム一般に言えることだが、極めて低い。私のようなやりこまない系でゲームが余り得意でない人間にはありがたいが、一般ゲーマーには物足りないかもしれない。

次回作は、あるんでしょうか。コーエーには『三国志』など多彩なコンテンツがあるのだから、類似品はいくらでもできるだろう。でも、本作の「説得」という手法を使うなら、やはり「説得」本家の『維新の嵐』のリメイクが面白いかな、と。

ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 2日 (火)

猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書、1995年

「軍国主義と空想的平和主義とは、互いに相手の裏返しだというのが、本書の原点であり、結論でもある」

本書「まえがき」の末尾を飾る一文である。つまり、どちらも独善的で国際的視野を欠き、一国主義的である、ということらしい。本書は、「空想的平和主義の克服」のために、その裏返しの「軍国主義」批判の書として書かれている。

対象となるのは、日清戦争から日米開戦まで。本書の歴史観は、いってみれば現在の「体制側」のそれである。国際協調の下での帝国主義政策は、積極的に肯定はしないが、否定はしない。しかし、ワシントン会議における「中国に関する9カ国条約」に締約国として参加しながら1928年6月4日に張作霖爆殺事件を起こし、田中義一首相は陸軍省と参謀本部の突き上げに勝てず関係者を処分できない失態を犯し、その間1928年8月27日の「不戦条約」を締約しながら、満洲事変を画策した関東軍をコントロールできなかった。これら軍関係者の暴走は、明治・大正期にも閔妃殺害事件(実際の日本の関わりはまだよく分からないらしいが)、日露戦争後の満洲駐兵問題、満蒙独立運動などにも見られたが、結局適切な処罰は行われていない。これらが背景にあったと著者は指摘するが、前記の諸問題はまだ国際条約による帝国主義戦争違法化の体制が出来上がっていない状態であり、日本国内の紀律や法の支配が確立していないという問題であるが、「9ヶ国条約」以降は国際政治の問題として立ち上がってくる。そのため、著者は「9ヶ国条約」違反と米国の一貫した対中門戸開放路線(日露戦争後の駐兵問題から一貫していることを著者は繰り返し指摘する)との関係から、「軍国日本」の「独善性」を批判する。つまり、1928年1月1日から日本の侵略行為を訴追対象とするいわゆる「東京裁判史観」と親和的なのである。

本書奥附には「1995年3月25日発行」とある。1995年といえば、終戦後50周年にあたり、有名な「村山談話」(8月15日)の出された年でもある。本書では韓国併合に関しても、伊藤博文の韓国皇帝に対する脅迫めいた言葉を長く引用し、米の生産高の上昇と人口の増加という面に触れつつも、基本的に「韓国人の憎悪」をもたらしたものと指摘し、上記のように中国に対する侵略行為を順を追って叙述している。本書が「村山談話」に与えた影響はどんなものかは分からないが、当時の自民党議員への影響があったとされる猪木氏の著書が、「村山談話」を受け入れる素地をつくったのかもしれない。

本書はその意味で現在の「政府見解」に近い歴史観を提示してくれる便利な本である。私はあまり異存を感じなかったので、自分はやはり「体制側」の人間なのかな、と思ってしまった。一応、アフィリエイトを張っておくが、本書はだいたいBook Offの100円コーナーで売っている有難い本なので、近代史初学者はまず本書を手にとってから、自己の歴史観を形成していくのがいいかもしれない。

余談だが、先日の「朝生」では、司会者から左の席の姜尚中氏や辻元清美氏が相手の意見を聞きつつも説得にまわる大人の対応する「体制側」に見え、右の席の西尾幹二氏が相手の意見を聞き入れず言いたいことだけを言う体制に反逆する革命家のようだった。西尾氏は福田恆在のゴーストライターとして書いた文章(『現代日本思想体系・反近代の思想』解説)などはニヒリスティックでクールなものだったが、ずいぶん変わったんだなぁ。それはともかく、こと歴史観に関しては、左右逆転のようなことが起きているようだった。

にほんブログ村 本ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月28日 (金)

松田宏一郎『陸羯南』ミネルヴァ書房、2008年

本年度サントリー学芸賞政治・経済部門を『江戸の知識から明治の政治へ』で受賞した著者の初の一般読者向けの新刊。

本書の特徴は、膨大な資料を踏まえた事実の叙述と分厚い研究史の蓄積を踏まえた隙のない論述により、羯南の生い立ちから、明治20年代のジャーナリズム勃興時代の立ち位置や従来、他の言論人や政治勢力から超然とした言論活動をしていたと思われていた羯南の政界人脈を明らかにして、明治政治史・社会史の中の羯南像を提示してくれている。、また、もちろん著者専門の思想史研究から羯南が学んだ西欧の文献を渉猟して、その知の基盤を探り、羯南自身の著作への鋭い分析をみせてくれる。その上、引用文を大胆に「現代文(に近い文体)」に変えることによって、引用文の挿入により地の文との文体の違いから読書のリズムを崩してしまうというような思想史の著作を読む際に感じる精神的負荷から解放してくれている。これにより、一般の読者にも最前線の政治史、社会史、思想史の研究を踏まえた陸羯南への接近を可能にしてくれている。私なんぞも、最初は「あれ、羯南ってこんなに分かりやすかったっけ??」と思ってしまったが、すいすい読めてしまう。

あとがきにも書いてあるが、著者は20余年前に陸羯南をテーマに博士論文を書いている。著者が羯南に惹かれたのは、「思想」というものの魅力がうせ、知識人の役割が「思想抜きの歴史」「思想抜きの政治」「思想抜きの事実」や思想を生々しい「政治的な思想抜きの思想」の紹介者として転換した70,80年代に、明治20年代の羯南が「自由平等の義、改進保守の異、抽象的の説を以て政論の基礎」とする「批評の時代」から「経済当否の理、法律利害の点、現実的の議」という「適用の時代」が到来したと述べていることに同時代性を感じたのではないか、と私は勝手に考えていた。本書を読んでも、その印象は変わらず、羯南の着実な現実志向の言論活動に対して好意的な論評を与えているように思える。

しかし、一方で羯南の政治思想の部分、丸山眞男「陸羯南―人と思想」(1947年)で評価されたような「健康なナショナリズムの論理」というものには、著者は懐疑的で批判の目を向ける。著者は羯南の「「国民主義」の主張は、一見深遠な教義があるかのような素振りを見せることによって、共同的共感の名の下に、政治的判断の矛盾や虚偽を覆い隠すナショナリズム一般の危険な性格を内包していた」(114頁)と述べ、「「国民主義」とは価値の内実を問うことではなく、「自負」を持とうとする意欲自体が価値である」という「空疎としかいいようのない精神主義以外に「国民主義」の中身はない」(116頁)と断じている。

参考文献に挙げられている著者の過去の羯南研究でここまで明確に羯南の「国民主義」批判を明確にしていたということはなかったと思う。それよりもイデオロギー闘争的な政治社会の場から、それから独立した政治言語を操る場をつくる装置として「国民主義」を評価する手続きを取っていたんだと記憶している(間違ってるかもしれないけど)。たぶん未発表の研究の部分で、そこのところを検討して羯南に失望したのかもしれない。その後の研究論文を集めた『江戸の知識~』では索引に「陸羯南」がないぐらいだし。

そして、著者が思ったかどうかは分からないが「適用の時代」と思われた90年代は、それ以前にもまして、政治的布置があらかじめ配置された「主義」による批判の応酬の近代史ブームがおき(参照)、また羯南の時代も議会の発足や東アジア情勢から似たような状況になっている。「そっち系」の雑誌の見出しには「21世紀の東アジア情勢は日清戦争前の状況」というようなのをたまに見かけるが、どちらの時代も本書が描いているように知の大衆化により、過激な言論が喜ばれ、冷静な議論をするジャーナリズムは下降していく。羯南の見通しは外れてしまい、その政論家としてのプライドのため、『日本』の経営が立ち行かなくなる。

そうした状況を見かねてか、著者は羯南のナショナリズム論を批判するついでに現在のそれをも皮肉をこめて言及しているのが、面白い。しかし、「これは危険な兆候だ!」的に言及していたら、著者も同じ過ちを犯してしまうのでそうはいかず、そうした言論に冷ややかな雰囲気を残しているところに著者の意気を感じます。しかし、過激な近代史ブームも下火になった現在に本書が出てよかったなぁ、とも思う。もし本書が近代史ブームがまだ余燼をくすぶっていた2000年前後に出ていたら、「そっち系」の反対の「あっち系」からの寄稿のオファーが舞い込む可能性があり、著者も困惑していただろう。

それはともかく、著者の述べる羯南の面目は「冷静とも言える一種の政治メディア批判の傾向」である。その真骨頂は、本書を読んでいただいて、各人で確かめてほしい。さまざまな政治勢力と言論が飛び交う分かりにくい明治20年代を理解するのにお奨めの作品です。

余談だが、14頁の司法省学校時代の写真の羯南は、本当に後年の紳士顔した羯南と同一人物なんだろうか。あまりのBad Boyな風貌に、こりゃ友達になれません、と思いました。。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

楽天ブックスで探す
楽天ブックス

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月26日 (水)

沢木耕太郎『テロルの決算』文春文庫、2008年

私は、本書においてもやはり自分が誤解していたことを気づかされた。

それは浅沼稲次郎への認識だ。

戦前左翼であったが弾圧されると右翼的な組織を作り、戦後左翼的風潮になると恥ずかしくもなく、また左翼に走り便乗した日和見主義者

これは1960年10月12日に日比谷公会堂で浅沼を刺殺した山口二矢の浅沼観だという。私もそれほど変わることのない浅沼観を持っていた。社会大衆党の代議士として1938年には国家総動員法の賛成演説をし、1940年の斎藤隆夫除名問題では除名に賛成し、これを契機に作られた聖戦貫徹議員連盟の常任幹事となった。そして1942年の翼賛選挙では非公認の立候補を取り下げている。戦後は社会党結成に尽力し、1959年3月12日に中国で「米帝国主義は日中共同の敵」と発言し、「中共」のご機嫌をとり、それに憤激した右翼少年に殺された。その場面は、初めて人が殺される場面を写真に写し、またTVフィルムとしても残っているものである、というのが私の浅沼観で、正直あまり評価できる人物ではなかった。不幸な死に方をしたから、ある種の神格化が行われただけだろう、と思っていた。

しかし、著者も山口の認識について述べるように、「ある意味哀しすぎるほど哀しい浅沼の一生」の「一端」に過ぎなかった。本書は山口二矢の評伝ノンフィクション作品として流通しているが、著者自身も述べるように山口という夭折者と浅沼という老政治家二人の物語であり、山口が中野坂上から新宿経由で小田急線をつかって玉川学園に通ったというところに、小田急線沿線在住でバイト先が中野坂上近辺という奇妙な一致に驚いたものの、私には浅沼伝としての興味を覚えた。

もっとも哀しいところは昭和17年の翼賛選挙を前にして「発狂」したところだろう。浅沼は左翼活動家だった早稲田在学時に相撲部という体育会系に属しながら左翼運動をしたため右翼色の強い体育会系にとって近親憎悪の対象である事件をきっかけに凄惨なリンチを加えられる。また関東大震災の時もあわや銃殺というところまでの危機に陥っているが、その志を変えることはなかった。その後、正式の政党に属し代議士として活動し始めると尊敬してやまない麻生久の軍に協力することを通しての社会主義政権樹立という戦略に献身して親軍的政治行動を行う。しかし、目指したものとは全く異なる大政翼賛会の成立に失望した麻生が死んでしまうと今までの自分の行動に自信を持てなくなってリンチ、検束、入獄という恐ろしさばかりが思い出され、巨体を震わせ「縛りにくる、縛りにくる!」と精神に変調をきたした。それまではどのような暴力に会おうと「志」という存在基盤があったことで恐怖に打ち勝つことができたが、それを失い空虚な巨体しか残っていない生の浅沼が現れている。

この「発狂」が後に中国への贖罪意識へとつながり、「日中共同の敵」という社会党左派をも驚かせる発言になったという。そしてこの発言が自らの命をも失う契機となったのだ。

ここで描かれる浅沼は本当に哀しい人物だ。庶子として生まれ、母の元を離れると家族の愛情にも恵まれず、左翼運動に入り込んでも難しい理論は分からずその巨体もあいまって浮いた存在でありながらもただ居続けた。その愚直な姿勢で頭角を現すが、戦中戦後の「日和見」な姿はまさに庶民そのものだった。

私のような浅沼認識の方はけっこう多いと思う。本書を山口二矢伝としてではなく、浅沼稲次郎伝としてお奨めする。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月25日 (火)

沢木耕太郎『危機の宰相』文春文庫、2008年

いろいろと誤解していて、本書を読む機会を逃していた。本書の原型が『文藝春秋』に掲載された1977年は、生まれていないので、読むことはできないし、存在すらも知らないのは当然として、2006年にやっと単行本化された際、ずいぶんと話題になったが、読まなかった。

なぜなら「沢木耕太郎」って、書店で『深夜特急』を見かけて、かってに「西村京太郎」みたいな列車を舞台にしたミステリー作家だと思い込んでいて、それを読む気になれなかったという恥ずかしい勘違いが一点。あと、本書の主人公・池田勇人って、「貧乏人は麦を食え」で「中小企業はつぶれてもいい」という「ディス・インテリ」ないけ好かない奴だったが、首相になった際は、「低姿勢」「寛容と忍耐」というスタイルを通し、岸信介内閣時に既に策定されていた「経済成長戦略」を取り入れて、うまい具合に高度成長期の首相だった人でしょ、と勝手に思い込んでいて、魅力を感じなかった、という点がある。しかも『危機の宰相』っていうタイトルがどうも池田勇人と結びつかなかったところに違和感を感じたのだ。「危機の宰相」といったら、在任中に難しい判断を迫られるような事件があって、それへの対処にリーダーシップを発揮するようなイメージがあって、それが池田勇人というにふさわしくないとの感があったのだ。

しかし、本書を読むと池田勇人という人物は、苦労人で自覚的に「経済成長戦略」を取り入れた人物であることが分かり、彼と同様に大蔵省というエリート集団に属しながらも病気や挫折を味わった盟友やブレーンに支えられた魅力ある人物だということが分かる。そして、保守政治最大の危機であった安保闘争を受けての首相就任であり、また今まで気がつかなかったが、池田政権時、浅沼稲次郎刺殺事件(1960年10月12日)、嶋中邸襲撃事件(1961年2月1日)、ライシャワー刺傷事件(1964年3月24日)という10代の少年によるテロ事件も起きている。現在でも陰惨な事件が起こると1930年代のようだという感想がもらされるが、この時は時間的にも政治的にもその比ではない危機があったといえるだろう。しかし、それを帳消しにできるほど、池田は人心を安心させ、豊かにすることを可能にした。まさに「危機の宰相」だったのだろう。

また興味深いのが、池田とマスコミとの関係である。上記に挙げた「中小企業は~」とかの発言は新聞記者に嫌われていた池田へのネガティブキャンペーンの一環として「はめた」という側面があったらしい。しかし、その後、池田の人柄を理解するようになった記者たちは逆にゴーストライターをやるぐらいにまで池田人気があがったという。やはり政治家というものはマスコミ対応がうまくないとやっていけない商売なのだな、と思わせる。最近の安倍晋三氏や麻生太郎氏などは明らかにマスコミを眼の敵にしていたところがあり、そうした奴はいじめてやろうという気がおこるのも当然である。首相になる気があるのだったら、新聞記者との関係をもう少し考えた方がよかったのだろう。

あとは先ほど書いた岸内閣の「経済成長戦略」だが、これは池田周辺が唱えていた「所得二倍」のスローガンを福田赳夫が取り入れたためということらしく、しかもその内容は池田=下村治の考えていた民間主導の経済成長とは異なり、官主導の臭みを感じさせるもので表面は同じでも中身は異なるものだったらしい。やはり「所得二倍」を「所得倍増」へと導いた池田グループあっての「高度経済成長」だったのだ。しかもこの成長理論というのは当時のエコノミストの中では異端で、不可能と考えられていたし、成功すればしたらで「ひずみ」を問題にするという極めてゆがんだ言論空間だったようだ。もっとも万年危機の経済評論はいまでも健在だが、当時のそれはより深刻だったようだ。というのも資本主義の成功を喜ばないという雰囲気があったわけで、昔、『共同研究転向』の共同討議を読んでいて、出席者たちがこの経済成長時代を指して「いやな時代になったものだね」とうなずきあっているのを読んで唖然としたものである。そうした時代背景も本書は押さえている。

著者の「批判者たちの立論の変遷を辿っていくと、この国の「口舌の徒」に対する絶望感が襲ってくる」という指摘は現在にも十分あてはまり、噛み締めるべき言葉だな、と思わせる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月22日 (土)

萩原延壽『馬場辰猪 萩原延壽集1』朝日新聞社、2007年

アーネスト・サトウの生涯を追った『遠い崖』で著名な著者の最初の単行本で、吉野作造賞を受賞した記念すべき評伝作品。

初出は1966年6月号から同年12月号までの『中央公論』の連載で、すでに40年も昔の作品ということだが、文章の古さは特に感じることはなく、著者が石川淳に師事し安部公房を兄として敬愛していたことからもうかがえる文章の巧みさを感じる。

そもそも著者は岡義武に師事した日本近代政治史の研究者であったようだが、たしかに本書に見られるのは歴史的考察が主であるし、師匠の岡のようにエピソードによって語るというところがうまい。たとえば、有能な能吏であった祖父について「自伝」ではふれるものの、武芸には秀でていたが酒色におぼれ経済的才能もなく、どうやら女性関係で一時藩から「禁足」を受けるような父についての叙述はほとんどなく、それを反面教師として女性に対して当時の民権派の活動家とは異なり潔癖で、そのためかどうかは分からないが妹になにやら執着があったりというエピソードは単に「自伝」を読んでいただけでは分からない事情である。

また、上記のように文学的交流もみられたことから、馬場の心情に迫るという叙述が多く、歴史家の伝記というよりも作家のそれのようなおもむきがある。たとえば、二回目の英国留学から帰国するのを躊躇しているあたりの叙述で「観念としての民衆」と「事実としての民衆」の乖離が予測され、それに自分が耐えられるかどうかを自問している姿として、描くという手法は、その時の馬場に迫っているようにも感じるし、後の民権運動への絶望を暗示させていて、文が進むにつれて利いてくる、というような構成とか。

しかし、著者は「思想家」としての馬場を評価しているようだが、それについての考察はあまりない。もっとも詳しく述べられているのは加籐弘之との「人権新説論争」であるが、そこにしても馬場の発言を紹介し、それを元に加籐を批判するのみになってしまって、加籐の主張はもとより馬場の主張もあまり検討されていないのではないかと思えてしまう。それは馬場が「日本語で文章を書くのが不得手らしい」と噂されており、彼の日本語著作はほとんど講演筆記を印刷されたものであり、その印刷の過程で他人の手により修辞上の改変がなされていたので、文章から馬場の思想を正確に論じることの不可能さという事情もあったかもしれない。

たしかに講演を基にした『朝野新聞』連載の「読加籐弘之君人権新説」と慶應義塾出版社から公刊された『天賦人権論』には多少の変更があり、場合によっては全く意味が逆になってしまうような改変がなされているが、それが馬場の意思なのかどうかはわからないという事情を考えるとあまり突っ込んだ議論はしづらい。

しかし、加籐びいきの私からすれば、加籐を「藩閥政府のイデオローグ」というのはちょっとかわいそうで、客観的にはそうとしかいえないが、加籐本人としては「明治国家のイデオローグ」たらんとしてはいたが、「藩閥政府」のそれとは思っていなかっただろう。事実、20年代になると「藩閥政府」を専制政治の残滓として批判の目を向けているし、単に馬場も内心思っていたように民権運動家が頼りなく、この時期の「藩閥政府」の方がマシだと考えていたに過ぎないだろう。「転向」後も加籐の思惟傾向は丸山眞男が述べるように「自由と進歩と民権」であり「市民社会のイデオローグ(この場合の「市民社会」はブルジョワ社会の意味)」であり、労働者階級の政治への進出には警戒感を終始持ち続けたが、明治15年頃の士族民権・地主民権と求めるものとしてはそれほど変わらない(どちらかといえば、改進党的都市事業者民権に近いが)。加籐が警戒したのは、「天賦人権」の名の下に、無常の権力を与えられていると考えて何でもできてしまうと勘違いしてフランス革命にみられた「理性」の「暴政」が行われるのを恐怖しただけだ。「妄想」であろうと別にそこまで批判するほどでもなかろうという「天賦人権論」を加籐が否定する理由としてあげているのは、「暴政」への危険性である。

その辺で馬場はフランス革命の惨状は専制政府に原因があるので、ルソー的イデオロギーに原因を求めるのは本末転倒としていて、著者もそれに同意してしてしまっている。たしかにルソー的「天賦人権」にのみ原因を求める加籐の議論は粗雑だが、現在のフランス革命研究ではフランス王政が専制的であったから革命が起きたり、虐殺が行われたり、というものではなく、民衆の力を王が借りようとした過程でなし崩しに革命がおき、さらにイデオロギー的側面にかなり重点が置かれているように感じられるが、明治期のフランス革命に関する著作は基本的に専制政治の問題として片付けられていたんだろうか。また著者も1万人あまりが虐殺された革命というものの原因を単に専制政治のため、という馬場の言を本気で信じていたんだろうか。自由民権運動を論じる際、どうも民権派の主張に耳を傾けすぎるのは如何なものかな、と自由で民主的な社会を享受している私などはいつも考えてしまうのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«田母神論文余話―90年代の近代史ブームの効用