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2006年2月17日 (金)

河村又介「明治時代に於ける選挙法の理論及び制度の発達」(『国家学会雑誌』第56巻第11号、第12号、第57巻第2号

戦前期の選挙制度を思想史的に検討しよう、という研究の手始めに昭和17年、18年という戦中発表された論文に触れてみた。

著者は、九州帝国大学教授として憲法を研究し、戦後は、日本に初めて作られた最高裁判所の裁判官として司法界に貢献した河村又介である。正直、初めてみる名でお恥ずかしいが、私の関心の選挙法に関しては、そのものズバリ『選挙法』という著書もある。

本論文は、幕末期から明治22年の衆議院議員選挙法までを範囲として、この時期に構想された選挙制度に関する提言を数多く紹介してくれていて、研究を始めるにあたって、大変ありがたいものである。

この時期の特徴は、やはり選挙・被選挙権の範囲、選挙制度の様式などが議論に及んでいるが、帝国議会開設以降、俎上に上る小選挙区か大選挙区(比例代表)か、普通選挙という問題は、それほど重要視されていなかった。もっとも、小選挙区や普通選挙の可否について、全く議論がなかったわけではなかった、という点は注意を要しよう。

しかし、興味深いのは、複選法というものを当時の人々が関心を持って研究しているところである。複選法とは、いわば間接選挙で、選挙人と原選挙人とをわけ、原選挙人から選出された選挙人が、代議士を選出する方法、または府県会議員が代議士を選出する手法が多い。結局これは採用されなかったわけだが、もし採用されていれば、後の選挙法議論が多数党による政治法的技術論に終始したことを思えば、選挙制度の議論により幅を持たせる機会ともなり、また複選反対派の懸念した様に、国政が地方政治にリンクされ、逆に政党の強化にも結びついたかもしれない。ある程度、非民主的要素が強い方が、かえって民主的要求が強くなるというパラドクスがここにみられたかもしれない。まぁ、与太話ですけど。

結局のところ、成立した選挙法は、小選挙区で一部2名の連記制の直接選挙というところに収まったわけだが、この論文が書かれた頃(昭和17,18年)では、何故このような制度で決まったかの詳細のところは分からなかったらしい。そして、現在の不勉強な私も知らない。私としては、普選の議論などは、それほど関心はなく、小選挙区か比例代表制かを選択する理屈を知りたいところであるので、明治22年選挙法の立案者金子堅太郎について、調べなければなるまい。

小選挙区は農村有利で、初期議会の地租増徴反対に懲りた政府が、大選挙区に転換したことからもわかるように、政府としては最初の選挙法は失敗だったのだ。であるのにもかかわらず、何故小選挙区制を選択したのか、その論理を知りたいところである。

これは、農村地盤の自由党系が小選挙区、都市地盤の改進党系が比例代表を主張という後の議論の出発点である。当時の政論家が民意を調達と、政治秩序の安定とのバランスをとりながら考え出した選挙制度の理論を考察する道筋が少し見えたかなぁ、という論文だったか、な。

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