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2008年6月28日 (土)

安彦良和『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN』第17巻、角川書店、2008年

副題は「ララァ編・前」。

本巻は、アニメ版屈指の名場面ばかり。

副官ドレン大尉の戦死。「やさ男」カムラン。ガンダムのことを一番わかっている父さん。ララァとの邂逅。「この人は本気なんだよ、わかる!?」のスレッガー。「礼の一言くらい言ってほしい」シャア。「かしこい」ララァ。「ななあつ」のアムロなどなど。

これだけの名場面を一巻に入れてしまうのは、贅沢のようだが、逆に言うと安彦先生は、このあたりに大して思い入れがないのだろうか。また、やはり、本作を漫画として読むと違和感があるのは、アニメのような動きのある絵が静止画としてコマにおさまっているからだろうか。一コマ一コマに動きがあるのに、さらにコマわりがアニメのセル画を並べるような配置になって、一つ一つの表情の変化をすべて書き込もうとする場面があったりする。安彦先生の絵は、一つでその情景すべてを語るような叙情的な表現をできるものだと思うのだが、あえて動きを作ろうとしているのは、かつてのいしかわじゅん氏の批判を気にしすぎているのだろうか。私は、記号的であっても安彦先生の絵が好きなんだけどね。しかし、シャア一人異常にカッコいいなぁ。

今日の一枚

Kids In Glass Houses『Smart Casual』2008年

エモ系の新人。全体的に疾走感あふれるカッコよすぎるアルバムで、そのドキャッチーさが、すぐに飽きるんじゃないかと心配だが、しばらくは楽しめそう。個人的にはsyrup16gの「生活」のイントロを思わせる「Dance All Night」がお気に入り。

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2008年6月25日 (水)

司馬遷/市川宏・杉本達夫訳『史記1 覇者の条件』徳間文庫、2005年

前回、読みやすい『史記』は徳間文庫だ、と述べたので読んでみたが、やはり読みやすい。分厚い本だが、すいすい読めてしまう。

本巻は五帝から春秋五覇まで収録。ちくま学芸文庫版で本紀の項羽あたりで息切れしてしまった私としては、春秋五覇を読めたのがうれしい。

しかし、『史記』の叙述スタイルとして特徴的なのは、名君と呼ばれる人々も存外器が小さく、ちょっとしたことで怒り出す。こういうことを書いてしまうあたり、司馬遷にとって、帝王も歴史家の前では一人の人間に過ぎないという史観を垣間見ることができる。また、こうして怒りだすことは、人間にとってよくあることだが、家臣の諫言を聞き入れて、怒りを納めるのが名君、そうでないのが暴君、というわかりやすい図式を示す。また他人を貶める讒言を聞き入れるのも暴君だとするのも『史記』のスタイルである。こうした叙述は、匈奴に敗れ降伏した李陵に怒り、彼の一族を皆殺しにしようとした武帝に対し、李陵を援護し、宮刑(男茎を切り取られる刑)に処された司馬遷の恨みが含まれているような気もする。また、司馬遷は自分の不幸の背後に彼を失脚させようとした勢力が存在したと信じていたようである。これが『史記』のスタイル、および後の正史のスタイルと君主のありように影響を与えたといえよう。

また「周本紀」で厲王が民の口を圧制によって塞いだことを召公が諌めたのを聴かず、民衆が反乱を起こし厲王が追放され、二人の大臣が執政した年号「共和」が成立した際のエピソードはいまだに言論の自由がない中国の最初の歴史書に記されているのは意外の感にうたれる。古代より士大夫必読であった『史記』ではあるものの、そこでの理想は理想として、何の役にも立たなかったのだな、と『史記』の読まれ方にも興味がわく。

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宮崎市定『史記を語る』岩波文庫、1996年

現在も連載中の『龍狼伝』という三国志を題材に取った漫画で、現在から2世紀末の中国の荊州にタイムスリップした主人公が、曹操軍の進行を単福の代わりに食い止めるところで「史実では、云々」と、明らかに『三国志演義』か吉川英治『三国志』での描写を「史実」といっていて、ずっこけてしまい、そのまま読むのをやめた。また、井波律子氏の『三国志演義』でも「陳寿『三国志』では」とでも言えばいいところで、「史実では」と述べているあたりで、何かむなしいものを感じた。古代中国史の「歴史書」というのは、いわば歴史物語のようなものであり、そこでのエピソードは噂話に過ぎず、本当にあったかどうかわからないことを「史実」といってしまうのは、むなしい。

本書は、中国史の泰斗・宮崎市定の『史記』入門書であるが、「司馬遷という男は、何か書いたものを見せれば、すぐ騙されやすい性質の学者であった」(70頁)と書いてしまうほどで、ほとんどの人物エピソードや建国の歴史を「作り話」と歯牙にもかけない記述が豊富である。そう、古代中国史の一般書に書き手が文学者や小説家が多いのは、結局、それらを記す「歴史書」は物語であって、史学の人間からすると「歴史」であるとは、いえないものであり、また、読者の方も「歴史」よりも「物語」として読みたい人が多いわけであるから、市場に出回るのは歴史物語のエピソード集が多いわけである。

本書は、これらエピソード集とは一線を画し、史学者としての『史記』の読み方を提示してくれる。そのため、いくつかのエピソードは紹介しているが、ほとんどは無味乾燥な記述が並び、「私の考えでは、云々」と『史記』批判を行うが、その根拠が示されないので隔靴痛痒な感もうける。しかし、それでも勉強になるわけで、司馬遷は儒学の徒であったとか、古代封建制は便宜的なものであったとか、孔子が重んじたのは上下関係の「忠」や「孝」よりも個人間の相互依存関係である「信」であるとか、司馬遷が重んじたのは自由人的な態度であったとか、なるほどと思わせる。

これによって、『史記』を読む際の基本的な知識を得ることができる。しかし、いきなり史学から入ってしまったのでは、世界観がわからない。まずはエピソード集としての『史記』本文に当たるべきであるが、初心者にとって翻訳書の中でどれが最適であろうか。私はこれまで岩波、ちくま、中公と普通に紀伝体を載せているものにあたってみたが、どうもしっくりこない。紀伝体は、どこからでも好きなものを読むのには適しているが、最初から読むとなると、いったりきたりで大体の世界観をつかみたいものにとっては不便である。そこで見つけたのが、徳間文庫版である。このシリーズは、暴力的に編年体に編集し、退屈な系譜とかを削除し、物語として読むことができるようにしている。私のような初学者は、ここから始めるのが良いかもしれない。

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2008年6月19日 (木)

岡義武『山県有朋』岩波新書、1958年

「閥族・官僚・軍国主義の権化」と悪名高い山県の評伝の名著。

山県が歿した時、『東京日々新聞』が「大隈侯は国民葬。きのふは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と見出しを出すほど、当時から不人気な人物で今日でも先のような評価の彼の生涯を、人生、政治・外交観、歌人としての側面など、あますところなく描いている。

本書の特徴は、著者の評価をほとんど交えず、叙事文には序はいらぬ、という清代の史論家の章学誠よろしく、淡々と史料に基づき論述していく点で、そこはもどかしいが、著者の誠実さを感じさせる。

興味深い点は、やはり徳富蘇峰が評したように山県は「穏健な帝国主義者」であり、外交政策はとにかく慎重な強調外交でとりわけ英米を重視した。有名な「主権線」、「利益線」の演説もそもそもは「利益線」たる朝鮮半島を日清英独の共同で独立国たらしめようとする意図で、述べたものであり、朝鮮半島の支配を否定はしていないが、積極的に推し進めようとする意思はない。また、第二次大隈重信内閣の悪名高い「対華二十一カ条要求」は加藤高明外相が元老に相談せずに行ったもので、その当時、世界大戦後、欧州勢が共同して東アジア進出してくるという見通しを立てた山県は袁世凱政権とロシア、アメリカと強調しなければならないと考えていたので、激怒した。某外交官出身の歴史家がこれを山県の意見を取り入れざるを得なかったと悪名を山県に押し付ける外務省史観を提示していたが、まったく誤りである。さらにシベリア出兵も山県は慎重で、アメリカが共同出兵を打診してくるまでは、認めなかったし、カリフォルニア州で「排日移民法」が成立した際には金子堅太郎を派遣して善後策を立てさせたいと考えたりした。

負の側面としては、明治20年の伊藤博文内閣で内相だった山県は保安条例を公布して、自由民権運動を徹底して弾圧した。また政党内閣を忌避し、普通選挙は国体を変換させるとして終始反対の意向を示した。そのため、原敬との関係は、険悪であったが、原が政友会総裁に就任して原の方針が転換されると両者の関係が徐々に密になり、原内閣成立後は、山県は原を激賞した。これは、山県と原の対米英協調路線、労働運動への警戒、普選への慎重な態度などの共通点がそのようにさせたのだろう。

そして、原暗殺に落胆し、寝言で「何んだ。馬鹿。殺して仕舞え。馬鹿な。馬鹿な」と原が殺されている夢を見て叫ぶほどであったそうだ。これは股肱と思っていた寺内正毅が「もう60で子供ではないから」と山県に反旗を翻し、宮中某重大事件で反山県勢力が山県を失脚させたところ、原は山県を守り続けたという山県の孤独感が原への評価を上げていったところもあるだろう。

このような大正末期の山県閥の崩壊過程を見ると、山県死後の軍部の台頭は山県に原因があるのではなく、「下克上」=誤ったデモクラシーの新しい流れの影響にあったように思えてならない。考えてみれば、山県存命の時代は大日本帝国の黄金時代で、山県が政党内閣を反対したからといって彼を「悪」に仕立て上げる史観は安易なような気もする。昭和天皇は山県のような人物がいれば、あのような悲惨なこと(軍部の台頭、敗戦)もなかったであろうとしているのも本書を読めばうなずける。大隈内閣後、高橋是清が山県に組閣を強く勧めていたが、それが実現したら、どうなっていただろうか。あと五年、山県が生きていたら、どうだっただろうか、と本書を読むと山県を少しは好きになるか・も。

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2008年6月18日 (水)

井波律子『三国志演義』岩波新書、1994年

『蒼天航路』を読んでいたら、三国志本を読みたくなって、積読本から取り出す。

『三国志平話』の張飛が活躍する庶民的バーバリズムから、『三国志演義』の関羽や趙雲や文官が活躍するようになる士大夫的物語へという転換、もともと庶民的人気のあった劉備率いる蜀漢帝国がその後の漢民族の帝国が中原を離れた地方政権へと転落した様と重ねあわされて正統化される、というのは面白かったが、その他は特に真新しい発見はなく、鋭い指摘もない。

そういえば、三国志に関しては文学者や小説家が論じることがあっても、歴史家が論じることは少ないように感じる。中国古典史書は、やはり文学の興味範囲なのだろうか。

また、「歴史知識」とでもいえばいいところを「歴史認識」と書いてみたり、たまに用語法が気にかかる。

しかし、三国志マニアにはお勧めできないが、ゲームからファンになったような人には入門書として最適だろう。

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2008年6月14日 (土)

岡義武『近代日本の政治家』岩波現代文庫、2001年

最初の伊藤博文だけ読んで、その後ずっと積読していたものを再読。

本書は政治におけるリーダーシップの問題のケーススタディとしての評伝集だが、小ネタの宝庫である。

本書で現れる政治家の特徴を顕著に表す例として、訪問客に対する態度がある。伊藤は客が来ると自分は座布団に座り、客はそのままで豪放な態度で話をした。山県有朋は、袴を着けて端座し、こちらが座るまで「お敷きなさい」と勧め、座ると話し出す。伊藤は、見送りをするのは西郷従道だけであり、山県は必ず見送りをし、どれだけ遠慮しても襖までは見送る。普通ならば、伊藤は人当たりはいいが、人を道具としてしかみなさず、ブレーンはできるものの、用が済めば面倒を見ないという性格に対し、山県は人当たりは悪いが、面倒見がよく、山県閥が作られたのも納得のエピソードとしてとれる。しかし、これを読んだ際の私の反応は、背筋が凍り、「山県、こえ~」というものだった。何故でしょう。写真のなんともいえない空漠した目の男の気配りが逆に恐ろしく感じてしまうからだろうか。

また、原敬は、どれだけ討論して喧嘩別れしても、玄関まで見送り、工事中の道路に気をつけるよう微笑をたたえて、注意を促したり、議会通路で政敵にあっても微笑して目礼するのに対し、犬養毅は政友の面倒見はいいが、政敵とは目もあわせないというエピソードも二人の人物を表している。この二人ともに、政治を敵・味方に分けて行動する点は同じだが、原が大政党の党首になり、犬養は徐々に仲間が減っていったことの分岐だろう。

大隈重信は自分だけ大いに話し、客の話は情報のみ聞く。西園寺公望は客への人当たりはいいが、家人への態度は冷徹そのもの。

本書のこうしたパーソナリティから政治行動の相違を読み解く叙述は鮮やかだ。しかし、山県は怖い。

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2008年6月13日 (金)

小谷野敦『童貞放浪記』幻冬舎、2008年

前のパソコンが故障して、新規買い替えをしたら、ココログへのログインのアカウントとパスワードを忘れて、しばらく管理ページに入ることができませんでした。やっとメモを発見して、ログインしてみたら、意外や意外にこの弱小ブログにささやかながらコンスタントにアクセスがあったようなので、また再開したいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、再開にこの題名の小説である。収録作品は、表題作と「黒髪の匂う女」「ミゼラブル・ハイスクール一九七八」の三作品。帯には「100%私小説」とあるが、それを信じるとすると表題作では、以前、反売買春の論陣を張った著者(最近は容認派)としては意外なほど、若き性の疼きに耐えられず、ストリップやヘルスなどに通いつめていたさまを描いていて、『日本売春史』を上梓した著者の過去を赤裸々に語っている。また今週、25歳で童貞というだけで凶悪犯罪に走った者がいる中で(もちろん、要因はこれだけではあるまいが)、T大出だが童貞の30歳の大学講師である主人公の焦燥はあるものの、このように風俗通いで憂さを晴らしていたのは、きわめて健康的で、近年の著者の売春容認論もうなずける。冒頭の「「ソープへ行け」の一言のほうが、遥かに童貞を救うだろう」という一文は重い。それはともかく、前作『非望』もそうであったが、これだけ人の心を読めない、いや読まない主人公の造形は秀逸で、とてつもないリアリティを感じさせる。

「黒髪の匂う女」は、おそらく著者の論敵・佐伯順子氏をモデルとした人物との関係を描いた作品であるが、これはなかなか問題作で、主人公が大学教授で妻が一般人であるということでフィクションであることを強調しているが、帯の「100%私小説」を重視すると大変である。どこまで事実でどこまでフィクションなのか。完全フィクションであるなら、著者にここまで書かせてしまう佐伯氏はよっぽど魅力的な方なのでしょう。また、著者の恋心の執着心は恐ろしくも哀しい。

「ミゼラブル・ハイスクール一九七八」は、以前、著者のブログで書かれた暗黒の高校時代のいじめを描いた作品だが、ここまで地味でこれほどリアリティに富んだ高校生活を描写した小説も稀であるし、本当に秀逸な作品。収録作の中で一番面白い。

余談だが、著者は日本文学研究者ということで、言語表現の誤用を厳しく批判する人であるが、本作や他のところでも「確信犯」を「間違っているとは知りながらやってしまう人」のような場合にも使っているのを見かける。本来は「自分は正義で他のもの、社会が間違っている」というような宗教的、思想的「確信」をもって行動してしまう人を指す法律用語らしいが、こうした誤用「確信犯」が法律用語以外の場面で使われることが多いので、日本語として定着しているとの判断なのだろうか。どうでもいいことですが。

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