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2008年7月30日 (水)

仲正昌樹『〈宗教化〉する現代思想』光文社新書、2008年

哲学をやっていたり、やっていた人に「形而上学って、何ですか?」と聞くとあまり要領を得た答えをしてくれない。こちらはとりあえずの基礎的な解釈や意味を教えてほしいのに、あちらは真面目なので断定的な物言いを避けたがる。

本書では明解に「自然とか宇宙全体の本性といったような、人間の知覚によって直接的に認識することがそもそも不可能であるようなものをめぐる議論のこと」(37頁)と答えてくれる。だいたい私がイメージしていたことをちゃんと言語化してくれて助かるのだが、やはりこれだけではすまない。これだけを形而上学とすれば、考え方によっては「形而上学を超えた真理」というような安直な議論が次々と登場してしまう。結局、究極の真理に到達しようとする哲学・思想は不可避的に形而上学的な性格を帯びてしまうようである。

そこで著者のスタンスとしては、「形而上学を超えた真理に到達した」と考えている人ほど形而上学に染まってしまい、それを認識していないだけたちが悪く、付き合いきれない、といったところか。だから、形而上学を克服するといって別の形而上学をつくるよりも、それぞれが暫定的な答えに過ぎないということを認識していくことが重要だ、ということだろう。

本書で繰り返し述べられることは、こうした真理に到達したと考える思想・哲学とそこに「哀れみ」のような感情が政治に入り込むと、この真理から考えて「哀れ」むべき人々に共感できない者は真理から外れた人非人であり、排除してもかまわないというフランス革命やスターリン支配に見られた暴力が生じてしまう危険があるということだ。そのあたりをサヨクの皆さんは無自覚ではないか、ということ。当然、こうしたメンタリティーを有するようになった「左傾化」したウヨクの皆さんにもあてはまる。

本書は、西洋哲学史としてなかなかよくできているようだし、仲正氏と統一教会とのかかわりをこれまでの作品に比べて多くのページを割いているという点で興味深い。しかし、現在、骨と皮しかないように思える仲正氏が学生時代、左翼学生と流血をも生じる闘争の渦中にいたというのは想像できないが、当時の学生は熱かったんですね。

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岩見隆夫『陛下の御質問』徳間文庫、1995年

私が覚えている昭和天皇とは、テレビで見た園遊会の一場面である。

黒柳徹子さんが昭和天皇を前にアフリカの子供たちの現状を話しかけていたが、昭和天皇は「あ、そう」といって次の人に顔を向け、皆が苦笑するという場面だ。

その時小学校1年生ぐらいの私といえば、天皇なんて知らないし、クイズ番組で次々と解答する黒柳さんを尊敬していたから、「オノレ、テンノー」と思ったものである。

今から考えれば、アフリカの現状を聴いて、それにどのような反応を示すにしろ、公の場で天皇が意志を表せば、政治的に利用されかねないと考えて、「あ、そう」と気のない返事をして煙に巻いたというところだったのかもしれない。それぐらい、昭和天皇は自分の発言に気を使った、ようである。

さて、本書は公の場ではなく、個人的に昭和天皇にふれた政治家たちの証言集である。昭和天皇の人柄が分かるような「雑草という草はない」とか、面白話もあるが、やはり興味深いのは、昭和戦前期の認識にふれられた部分である。服部龍二『広田弘毅』で昭和天皇の広田認識というところで本書が言及されているが、近衛と広田のように決断力に欠けた人物を嫌い、おそらく日中戦争を止められなかった事が昭和天皇としては忸怩たる思いがあったように感じ取れる。靖国問題への認識も中曽根康弘首相の参拝取り止めを「適切であった」と一昨年ホットな話題を提供した「富田メモ」の富田朝彦宮内庁長官を通して中曽根氏に伝えたあたりも中国への「贖罪意識」があったと解される。謝罪の気持ちにも差があったというが、中国の鄧小平国家主席来日の際は、事務方が「過去」問題にふれないよう気を使ったが、鄧小平が過去にふれた際、昭和天皇は「謝罪の気持ち」を語られた。しかし、その他の国に対しては、自制していたようだし、たとえば東南アジアに関しては、現在ある東南アジア諸国に対する戦争ではなく、それらを植民地にしていた列強との戦争であったとの認識であったため、贖罪の意識は低かった。やはり中国は別物なのであった。

興味深いのは韓国に対する「お言葉」である。1984年の全斗煥大統領来日の際、韓国側は謝罪を求めないという方針を日本側に伝えたが、中曽根首相は自分の時に韓国、次に中国、最後にソ連というような遠大な外交戦略があって、「謝罪の気持ちをもっと率直にだいしたほうがいい」と天皇に謝罪の「お言葉」をするように振付けたという。このあたりから政府による天皇の政治利用が行われ、諸外国としても天皇の謝罪がなければ、納得できないという雰囲気をつくったんだな、と思わせる。また現状を見るにしても、こうした「大きな外交戦略」がえてして成功しないものだという印象もある。

あと、印象に残ったのは、田中清玄と昭和天皇との会談かな。これほど、率直な物言いを昭和天皇に対して行った民間人というのは稀であろうし、それが表に出ているというのもほとんどないだろう。右翼思想というのにあんまり意味があると思えないので、興味がないのだが、右翼運動家と政治とのかかわりを陰謀史観に陥らずに詳細に研究したものってあるんだろうか。そのあたり面白いような気がするが。

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2008年7月24日 (木)

井上寿一『昭和史の逆説』新潮新書、2008年

「この本は、スリルとサスペンスに満ちあふれた昭和史の読み物になることをめざしている」

本書冒頭の一文である。これは間違いなく成功している、と思う。おそらく、坂野潤治氏の名論文「外交官の誤解と満州事変の拡大」(『社会科学研究』1984年2月)という各アクターが主観的には事変抑制を図りつつも、意図せぬ結果に終わってしまった過程を描き、読む者をして「よかった、これで軍クーデターは失敗に終わるぞ」と結果が分かっているにもかかわらず、一瞬ならずとも思わせてしまいつつ、どんでん返しで呆然とさせる推理小説のような作品を一般向けに昭和史の各事件で再演した風がある(第二章参照)。

いや、本当に成功してます。日米開戦の第六章など、途中まで読み進めている内に「ああ、こうして日米開戦は避けられたんだなぁ」と自分がパラレルワールドにいるかのような錯覚に陥りつつ、後半になると「やっぱ、そこいっちゃうんだよな」とさびしくなりつつ、安心するような「スリル」を味わわせてくれる。

本書の題名にあるように歴史は逆説に満ちている。アクターの主観的意図と結果は、まったく別の方向に向かってしまう。田中義一の山東出兵は日米英の協調関係を取り戻したが当然のように日中関係を悪化させた。浜口雄幸の軍縮条約締結は政党内閣の到達点であったと同時に内閣の専制を思わせ民心を離反させた。国際連盟脱退は国際協調の放棄ではなく大国間との協調を可能にするためだったが、長期的にはどうだったか。権力基盤の弱さを民衆に求めようとして戦争を煽ってしまい収拾がつかなくなる、とかとか。

浜口内閣のところは興味深かった。戦前の成功せる政党内閣、つまり選挙によって最大多数を背景に強力になった原敬、浜口、犬養毅各内閣はいずれもテロによって倒れている。いわゆる隈板内閣成立時に加藤弘之が政党内閣の成立を一応は寿ぎつつ、「政党内閣はもっとも強力な専制内閣である」というようなことを言って、警戒を促していたが、こうした逆説に耐えられない人々がいたようである。また、浜口の天皇利用についての言及が本書にはある。浜口率いる立憲民政党は「議会中心主義」を掲げ、「天皇中心主義」を掲げる鈴木喜三郎内相(政友会)に批判されたが、当時の機関誌『政友』、『民政』を見比べると後者の方が皇室関係の写真や記事を多く掲載し、浜口内閣の時期には最高潮にあったような記憶がある。これも逆説である。

それはともかくとして、いくつか疑問。第四章の天羽声明に言及したところで、「どこが問題だというのか」と述べているが、服部龍二『広田弘毅』ではこれを詳しく論じ、引用文を読む限りにおいても「いかにも強硬」だという印象を持ってしまう。さらに天羽の原稿が排他的な対中政策を推進しようとする重光葵が書かせたものを元にしているとすれば、単に意図せざる結果とはいえないような気もしてくる。どんなものなのだろうか。

また、最後の「降伏は原爆投下やソ連参戦の前に決まっていた」というのも、本書を読んでも、結局、米国の「太平洋戦争史観」の原爆投下というのはもともと疑問であったが、やっぱりソ連参戦が決定打だったのではないか、という気がしてしまう。4月7日発足の鈴木貫太郎内閣が終戦内閣であったろうし、降伏に向けて地ならしをしていたのも、そうであったろうが、かといって「決まっていた」というと、どうかなと思ってしまう。たしかに「決まっていた」のだろう。しかし、それは首相周辺の方針であって原爆投下やソ連参戦がなくて実行できたかは別の問題のような気がしてしまう。いってみれば、若槻首相や近衛首相が事変の不拡大を意図していたからといって、それを実行できたとはいえないのと同じに思えてしまう。いや、ここは軽々しく事挙げするのは意味がないのかもしれない。新書というメディアを考えれば、一般の人は原爆投下があるまでは日本帝国は徹底抗戦するものだと思っている、と考えての表題かもしれない。とすれば、何もいうことはなく、降伏が遅れたのは一大決戦の戦果を求めた昭和天皇とソ連交渉に期待した鈴木首相と東郷茂徳外相の判断ミスに帰するというのが、穏当なところなのでしょうか。

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2008年7月18日 (金)

杉田敦『デモクラシーの論じ方』ちくま新書、2001年

定評ある政治学入門書。

ラディカルでポスト・モダーンな政治学徒A君と穏健なリベラル近代主義者B君との対話によって、デモクラシーの主要な論点を次々と結論を出さぬまま議論していく。

私のような保守的な読者は、最初はA君のむちゃな議論を英米政治を理想とするB君が大人な態度で対応していくさまを好感を持ってB君視点で読んでいくのだが、後半に差し掛かり、社会契約論にこだわりをみせるB君に嫌気が差してきて、A君がんばれ、と無責任な視点転換をしている自分を発見しました。

憲法の議論のあたりで、憲法改正論者のB君に対して、A君が「君は革命主義者だ」というようなことを言うあたりが、なかなか新鮮で、B君的な憲法改正論者が今後主流になっていくんだろうな、と思うし、そうした世の中の流れの中で、B君が「反動的」と呼ぶ従来の憲法改正論者が最近は9条2項削除だけ、という意見を表明しているのは、このあたりの「危機感」からだろうか。本書も7年前の著作だし、憲法改正の議論も今後は多様になっていくのだろう。

あと余談だが、最初の方で、日本の政治学は戦前の反省から「制度論」的なことばかりに注目してきた、と述べられているが、そうだったんだろうか。私は、最初期は日本特殊論的な精神構造を問題にする批判の学としての政治学で、それらの反発から80年代以降、「制度論」もしくは「新制度論」が表れ始めたという理解だったのだが、字面に引っ張られてはいけませんかね。

それはともかく、読んで損はなさそうです。上級者は、彼らの議論の元ネタ探しにご一読を。

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I・ブルマ&A・マルガリート/堀田江理・訳『反西洋思想』新潮新書、2006年

積読していたものをなんとなく取り出して読む。

本書のタイトル『反西洋思想』とは、敵によって描かれる非人間的な西洋像のことで、「オクシデンタリズム」と呼ばれ、それは単なる反西洋的意識や態度ではなく、「殺人的な憎悪」が含まれるものである。

しかし、こうした反西洋意識ではなく「殺人的な憎悪」までをも感じるものたちとは、どのような人々であろうか。「西洋やアメリカに対して妬みや憎しみを感じるのは、それがどのようなものだか想像すらできない人たちではない。普段から西洋の発するイメージや商品を身近に感じ、消費している人たちである」(33頁)。なるほど、そのとおりであろう。本書によれば、「オクシデンタリズム」は非西洋の人々が西洋に接したことで自発的に創造されたものではない。西洋人の中で近代化に対するリアクションとして生じた意識・思想が、同様の印象を感じた非西洋人に見出され、憎悪に点火したというものだという。つまり、西洋から輸出された思想が、西洋に対して暴力によって輸出されるというものだろう。

本書で興味深かったのは、「西洋の都市」、つまり非西洋諸国の中で近代化に移行しつつある「都市」という存在へのリアクションのすさまじさである。具体的には毛沢東であり、クメール・ルージュの行った田舎による「都市」の破壊衝動であり、実際の破壊である。このように「オクシデンタリズム」は実際に西洋人に対する「憎悪」だけではなく、西洋化した同国人にも向けられ、「西洋的」という札をかけさせれば、どのような暴力も可能にしてしまうという恐ろしさがある。そして、それを指導したのは伝統を保持しようとする保守主義者ではなく、伝統破壊者であり、西洋への留学経験のある者たちだった。

そういえば、急激に近代化を果たした日本において、こうした田舎による「都市」への復讐といった事件は思い当たらない。毛沢東という「天才」が事を起こす前であるから当然ともいえるが、あるとすれば、中国の農民兵への着目から日本の革命主体を軍隊に置こうとした北一輝の事例がある。しかし、彼の思想の下に行われたとされる2・26事件は、軍内部の主導権争いとリベラル派への攻撃というのに留まっている。思想史的には、明治後期の国粋主義の論調の中に都市による地方の収奪という視点はあったが、これが憎悪を伴って破壊的な実行に移されたわけではない。

いや、もしかしたらあるのかもしれない。それは、政党組織の強化を目指して、主に都市からの収益を利益誘導という形で地方に分散させた原敬の手法である。そもそも、自由民権運動を地方農民層の近代化=「都市」への反発の組織化と考えれば、何の不思議もない。そして、地方による都市の収奪の大成者は、言わずと知れた田中角栄だろう。戦後の日本において、地方農民が組織化されて都市への暴力的破壊を行うという可能性は極めて低かったであろうが、彼が首相に就任するあたりまでは散発的ながらも暴力的な革命組織が存在していた。浅間山荘事件は田中内閣成立の約5ヶ月前だったし。

田中内閣成立により、国富が地方に分配され、経済効率が低下したため、経済成長が鈍化したという説がある。私もこれに説得力があると考える者の一人だが、上記の「オクシデンタリズム」をみると、血が流れるよりは経済の効率化を低下させ、巨大な借金を抱えるのも遥かにマシであり、偉大な革命家・田中角栄の存在は平和に貢献したのかもしれないなぁ、とまったくの妄想を抱いてしまった。

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2008年7月10日 (木)

田中芳樹『銀河英雄伝説』創元SF文庫、2007年~

知人から聞いた噂話である。

現・防衛大学校校長の五百簱頭真氏がかつて「銀英伝が好きだ」と発言したそうである。周囲は、五百簱頭先生ほどの方がSF小説を読んでいるなんて、と意外に思うと同時に、同小説に描かれる政治・外交・戦略・歴史の側面を面白いと感じ、そのあたりを論じてくれるかもと期待して、「どのあたりがですか」と尋ねると

「ラインハルトがカッコいい!」

とおっしゃられて、皆ずっこけた。というおはなしである。

まぁ、五百簱頭氏が真面目な顔して、ヤンの国家論やラインハルトの巧みな戦略を滔々と論じられたら、それはそれで酷い笑い話になってしまうので、噂話としても良い返答だな、と思う。

で、『銀英伝』なわけですが、私は田中芳樹氏といえば、『アルスラーン戦記』という、オタク度のより高い読み物を中学生の時に読んでいて(この小説、帝都奪還まででいいんじゃない?)、面白いとは思ったが、『銀英伝』には手を伸ばさなかった。理由はいろいろあるんだろうが、二段組のノベル版が苦手であったのと、艦隊戦にまったく興味が持てない子供だったからだろう。そして、昨年新たに創元SF文庫で装いも新たに再刊されたので、読んでみたというところである。

いやー、面白いですね。現在、第4巻「策謀編」まで読んでみましたが、これを読んできた人間と読まない人間とでは、人生観がずいぶん違うでしょう、と褒めてみたい。で、驚くのが、この作品を書いたときの田中氏の年齢が30歳前後で主人公の一人ヤン・ウェンリーと同じ年で始めているわけです。この年齢で、こんなものを書けてしまうのだから、私は小説家になることをやめます、と考えてしまう。

各巻末ではSFを読まない観ない私にとっては未知の方ばかりが解説を書かれていて、そこで本作は、『三国志』を下書きにラインハルトを曹操、ヤン・ウェンリーを劉備と諸葛亮、フェザーン自治領を孫呉としてイメージされている、とあった。別の解説では、作者は『三国志』ではなく『史記』の「列伝」を参考にしたともいっている。たしかに、『三国志』よりも『史記』的世界の方が合うかもしれない。ヤンは君主ではないし、諸葛亮は戦争うまくないし、韓信、楽毅、伍子胥のように戦争がうまく忠臣なのに君主との関係がうまくいかない感じの方があっているような気がする。ラインハルトも曹操のような民生の充実を図って余裕を持って戦争する慎重家よりも始皇帝、項羽のイメージが近い。

しかし、初版第1巻が刊行された1982年という年に注目すると、当時の三国志、米・ソ・日の悪いところというか、特徴を混合させたようにも思える。銀河帝国はドイツっぽい帝政ロシアのような気がするし、民主主義を究極に目指したとされる共産主義からとてつもない専制国家が生まれたというのも民主政体からルドルフ・ゴールデンバウムが生まれたという比喩に感じるし、1982年にソビエトの第6代最高指導者に就任したユーリ・アンドロポフがペレストロイカの先鞭をつけたように改革気運が高まり始めていた時期で、ラインハルトの登場を予感させる。自由惑星同盟のトリューニヒトは1981年に大統領になり、ソ連を「悪の帝国」と呼んだロナルド・レーガンだろうし、一部ソ連ぽい指導体制でもある。そして、フェザーン自治領は銀河帝国を宗主国と仰ぎながら自治を約束され、経済的世界支配を試むあたりは、当時の世界から見た日本のようなイメージで、指導者のルビンスキーのハゲ頭は1982年就任した中曽根康弘氏を想起させる(顔の造形は佐藤栄作だが)。地球教の存在は、1980年ぐらいまで資本主義か共産主義かという政治体制やイデオロギーの対立の中で忘れられていた宗教の存在が徐々に表に出始めた時期だというのがモデルになっているような気がする(1980年にイラン・イラク戦争なんかがありましたね)。

こういう時事ネタをうまく小説に取り込んでいるのではないかな、と私は読みました。で、ついでに書いておくと、物語の冒頭に後に銀河新帝国初代皇帝となったラインハルト・フォン・ローエングラムは20歳であったが、刊行の始まった1982年は後にロシア新帝国初代皇帝となるウラジーミル・プーチンが30歳を迎えた年であった。

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2008年7月 9日 (水)

福田英子『妾の半生涯』岩波文庫、1958年

大阪事件に関わった自由民権運動の女性闘士の自伝。自身の誕生(1865年)から亡夫福田友作の一周忌(1901年)あたりまでで筆をおいている。不勉強なことに、解説を読んで知ったのだが、1927年まで存命だったとは、この人もずいぶん長生きだったんですね。

だいたい大阪事件に連座した人で、漁色家(?)の大井憲太郎の被害者の一人というイメージしかなかったのだが、後半生では不幸な結婚を強いられる女性に技術を与えて経済的自立を促す学校を設立したり、「平民社のしゅうとめ役」と呼ばれたように『平民新聞』発行の手助けしたり、夫の門下生だった11歳年下の石川三四郎を愛人にしたり、と後半生も波乱万丈である。

本文の方は、文語体でとにかくカッコいい。これを執筆時は、かつての民権家が衆議院議員として彼女から見れば堕落の極みにあったという観点から、自由民権家の堕落(英子がせっかく集めた資金を宴会で使ってしまう)を描いて、男どもに啖呵をきるあたりはしびれます。

また、収監中、獄吏に優しくされ言い寄られたり、女囚にやたらと敬愛され同性愛を疑われたり、出獄後も自分の容姿が優れているといってるようなエピソードをいくつか挙げているあたりも面白い。まぁ、執筆時には11歳年下の恋人がいたようなので、自分に自信をもっていてもおかしくないですな。

圧巻は彼女の悪口である。大井憲太郎にはもちろんであるが、彼女から大井を奪った親友であり女流作家の清水紫琴への悪態はすごい。清水に関して書いている現在のものでは、清水に同情的なものが多い中、最初の弁護士の夫は清水の父を救った恩人でありながら「家計不如意」のためといわれ(一般に夫・岡崎某の女遊びを許せなかったとされる)、英子から大井を奪い、結果的には英子同様に子供のできた清水は大井に捨てられるのだが、「例の幻術をもて首尾よく農学博士の令室となりすまし」と古在由直夫人におさまり、その後、大井との子が訪ねてくると面会を断る「邪慳非道の鬼」とまでいってのける。ちなみに古在と清水の間には哲学者・古在由重が生まれている。

あと面白かったのは、英子が出獄した時、植木枝盛が「美しき薔薇花の花束」を贈ったそうである。植木って、気障な野郎だ。

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2008年7月 4日 (金)

春田国男『政治家の条件―リベラリスト斎藤隆夫の軌跡―』みもざ書房、2008年

私は以前、斎藤隆夫を研究していて、彼は私にとって思い入れのある人物である。その彼の評伝がでたというのをamazonで発見して、楽しみに到着を待ち、そして読んでみたが。。

正直、語るものはない。

特に新しい評価は何もないし、参考文献をみて、これまで出版された評伝を挙げてはいないし(読んではいるらしい)、学術論文は一つもない(河原宏氏のものは史料的なもので研究ではない)。作家や評論家が書いた評伝なら、別に何も言うことはないが、一応大学教授という職にあった者がこれでいいのか、という著作である(もっとも略歴に「作家」とあるが)。

唯一新しいのは、2006年に発見された翼賛選挙における鹿児島二区の選挙を無効とする裁判の判決書で、告発人に斎藤隆夫の名があったというところだが、約1頁におまけのように書かれているだけだ。これを詳しくやっていれば、面白いものになったであろうが、残念である。

これ以上書くと悪口になってしまう。私は批判はするが、悪口は書かないというスタンスを守りたいので、後は単純な誤りを指摘しておく。

まず、9頁の斎藤と同郷の加藤弘之との関係であるが、著者は両者の影響関係はほとんどないとしているが、斎藤の社会進化論はほとんど加藤から学んだものといえるし、戦争観も『斎藤隆夫政治論集』所収の「戦争の哲理」で斎藤自身が認めているように加藤の論を受けたものである。また、著者が「特に述べるような出来事は主人公には起こらない」(57頁)とする時期におこなった斎藤・加藤論争で斎藤が批判した加藤の「立憲的族父統治」を1929年1月22日の議会演説で「族父」と「族子」という用語を使って論じている(必ずしも加藤の「族父統治」と同じではないが)。

次に斎藤が少年時に学んだ京都西本願寺経営の弘教学舎について述べたところで、「キリスト教排撃を目的とした保守的な仏教教育が、文明開化の夢にとらえられた少年の心に、とうてい合わなかったことはいうまでもない」(13頁)とするが、斎藤がそこの校風に合わなかったのは事実かもしれないが、斎藤は加藤同様にキリスト教排撃論者であたし、宗教一般を信じていなかった。

また、明治39年刊行の『比較国会論』の比較の対象は、英米仏独伊日と瑞西(スイス)であって、瑞典=「スウェーデン」ではない(54頁)。

あと、最初に斎藤が議会で発言したのは、「大正二年三月二七日(注・26日の誤植か)」ではなく、3月4日の未成年の飲酒を規制する法案への反対演説である。斎藤によれば、当時は小学校を出てすぐに社会に出る子供たちに飲酒を規制しても守られるはずはなく、守られないことがわかりきった法律は作るべきではない、ということのようだ。

他の誤植や叙述も気にはなるが、解釈の問題であったりするので、省く。本格的で新しい斎藤論の登場が待たれる。

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2008年7月 3日 (木)

服部龍二『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』中公新書、2008年

たしか『諸君!』の企画だったたか、「著名人が読者に薦める歴史書5冊」のようなもので小谷野敦氏が城山三郎『落日燃ゆ』を挙げていて、本書を読んで広田がA級戦犯ではないと思った、というようなことを書いていたのを読んで、嘆息した。本格的な歴史書を書いている小谷野氏ですら、こうなのだから、近代史をかじったものの常識などは一般人には届かないのだな、と。また小谷野氏はブログで保守派が広田礼賛をしないのを訝しがっていたのも不思議だった。

つまり、広田弘毅という人物の印象は『落日燃ゆ』によって形成された軍部に抵抗した平和主義者であったにもかかわらず、戦犯として絞首刑を受けたというのが一般的だが、近代史を学んでいる者にとっては、近衛内閣の外相期に和平交渉のハードルを吊り上げ、参謀本部が慎重であった蒋介石との交渉断念を強行した人物である、というギャップである。それを埋める新書を気鋭の外交史家が上梓した価値は大きい。

著者は、城山作で形成された広田イメージを十分に意識しつつ叙述を進めているため、読者としても論点を見出しやすい著作となっている。

著者がまとめる広田の「罪」とは、近衛内閣による派兵や戦費調達に消極的ながら賛成し、南京事件についても閣議に提起せず、また日中戦争の和平条件をつり上げようとした末に、国民政府を否認したところにある、というものだろう。いってみると凡庸な外交官がもっとも大変な時期に国の外交政策を担うようになってしまった、というところであろう。昭和天皇の広田への低い評価も興味深い。

また、城山著が「広田は玄洋社の正式のメンバーではなかった」という記述を重視し、広田と玄洋社との関係に紙数を費やしている。しかし、玄洋社=悪というような単純な図式で広田断罪の材料に使うのではなく、通常、広田の人間性を描くには家族との関係を描写することであらわすのだが、東京裁判時に広田がもっとも気遣ったのは玄洋社社長の進藤一馬への配慮だったところにふれるなど、従来とは異なった魅力を教えてくれている。

余談だが、日本の内閣制度発足以来、ファシストとか軍国主義者とは異なり、玄洋社という団体に所属したという意味で右翼が首相になった例は広田だけなのだろうか。平沼騏一郎も国本社という右翼団体を主宰していたから、この二人ということになるのだろうが、国本社は平沼支援団体という色彩が強い。どちらにしても二人とも首相在任時は精彩を欠き、こうした右翼団体に思想や人格を鍛えられた広田がここぞという時に気弱な対応しかできなかったという点で、もう少し肝の太い人材育成をしてほしかったものだと思ってしまう。

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