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2008年11月28日 (金)

松田宏一郎『陸羯南』ミネルヴァ書房、2008年

本年度サントリー学芸賞政治・経済部門を『江戸の知識から明治の政治へ』で受賞した著者の初の一般読者向けの新刊。

本書の特徴は、膨大な資料を踏まえた事実の叙述と分厚い研究史の蓄積を踏まえた隙のない論述により、羯南の生い立ちから、明治20年代のジャーナリズム勃興時代の立ち位置や従来、他の言論人や政治勢力から超然とした言論活動をしていたと思われていた羯南の政界人脈を明らかにして、明治政治史・社会史の中の羯南像を提示してくれている。、また、もちろん著者専門の思想史研究から羯南が学んだ西欧の文献を渉猟して、その知の基盤を探り、羯南自身の著作への鋭い分析をみせてくれる。その上、引用文を大胆に「現代文(に近い文体)」に変えることによって、引用文の挿入により地の文との文体の違いから読書のリズムを崩してしまうというような思想史の著作を読む際に感じる精神的負荷から解放してくれている。これにより、一般の読者にも最前線の政治史、社会史、思想史の研究を踏まえた陸羯南への接近を可能にしてくれている。私なんぞも、最初は「あれ、羯南ってこんなに分かりやすかったっけ??」と思ってしまったが、すいすい読めてしまう。

あとがきにも書いてあるが、著者は20余年前に陸羯南をテーマに博士論文を書いている。著者が羯南に惹かれたのは、「思想」というものの魅力がうせ、知識人の役割が「思想抜きの歴史」「思想抜きの政治」「思想抜きの事実」や思想を生々しい「政治的な思想抜きの思想」の紹介者として転換した70,80年代に、明治20年代の羯南が「自由平等の義、改進保守の異、抽象的の説を以て政論の基礎」とする「批評の時代」から「経済当否の理、法律利害の点、現実的の議」という「適用の時代」が到来したと述べていることに同時代性を感じたのではないか、と私は勝手に考えていた。本書を読んでも、その印象は変わらず、羯南の着実な現実志向の言論活動に対して好意的な論評を与えているように思える。

しかし、一方で羯南の政治思想の部分、丸山眞男「陸羯南―人と思想」(1947年)で評価されたような「健康なナショナリズムの論理」というものには、著者は懐疑的で批判の目を向ける。著者は羯南の「「国民主義」の主張は、一見深遠な教義があるかのような素振りを見せることによって、共同的共感の名の下に、政治的判断の矛盾や虚偽を覆い隠すナショナリズム一般の危険な性格を内包していた」(114頁)と述べ、「「国民主義」とは価値の内実を問うことではなく、「自負」を持とうとする意欲自体が価値である」という「空疎としかいいようのない精神主義以外に「国民主義」の中身はない」(116頁)と断じている。

参考文献に挙げられている著者の過去の羯南研究でここまで明確に羯南の「国民主義」批判を明確にしていたということはなかったと思う。それよりもイデオロギー闘争的な政治社会の場から、それから独立した政治言語を操る場をつくる装置として「国民主義」を評価する手続きを取っていたんだと記憶している(間違ってるかもしれないけど)。たぶん未発表の研究の部分で、そこのところを検討して羯南に失望したのかもしれない。その後の研究論文を集めた『江戸の知識~』では索引に「陸羯南」がないぐらいだし。

そして、著者が思ったかどうかは分からないが「適用の時代」と思われた90年代は、それ以前にもまして、政治的布置があらかじめ配置された「主義」による批判の応酬の近代史ブームがおき(参照)、また羯南の時代も議会の発足や東アジア情勢から似たような状況になっている。「そっち系」の雑誌の見出しには「21世紀の東アジア情勢は日清戦争前の状況」というようなのをたまに見かけるが、どちらの時代も本書が描いているように知の大衆化により、過激な言論が喜ばれ、冷静な議論をするジャーナリズムは下降していく。羯南の見通しは外れてしまい、その政論家としてのプライドのため、『日本』の経営が立ち行かなくなる。

そうした状況を見かねてか、著者は羯南のナショナリズム論を批判するついでに現在のそれをも皮肉をこめて言及しているのが、面白い。しかし、「これは危険な兆候だ!」的に言及していたら、著者も同じ過ちを犯してしまうのでそうはいかず、そうした言論に冷ややかな雰囲気を残しているところに著者の意気を感じます。しかし、過激な近代史ブームも下火になった現在に本書が出てよかったなぁ、とも思う。もし本書が近代史ブームがまだ余燼をくすぶっていた2000年前後に出ていたら、「そっち系」の反対の「あっち系」からの寄稿のオファーが舞い込む可能性があり、著者も困惑していただろう。

それはともかく、著者の述べる羯南の面目は「冷静とも言える一種の政治メディア批判の傾向」である。その真骨頂は、本書を読んでいただいて、各人で確かめてほしい。さまざまな政治勢力と言論が飛び交う分かりにくい明治20年代を理解するのにお奨めの作品です。

余談だが、14頁の司法省学校時代の写真の羯南は、本当に後年の紳士顔した羯南と同一人物なんだろうか。あまりのBad Boyな風貌に、こりゃ友達になれません、と思いました。。

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2008年11月26日 (水)

沢木耕太郎『テロルの決算』文春文庫、2008年

私は、本書においてもやはり自分が誤解していたことを気づかされた。

それは浅沼稲次郎への認識だ。

戦前左翼であったが弾圧されると右翼的な組織を作り、戦後左翼的風潮になると恥ずかしくもなく、また左翼に走り便乗した日和見主義者

これは1960年10月12日に日比谷公会堂で浅沼を刺殺した山口二矢の浅沼観だという。私もそれほど変わることのない浅沼観を持っていた。社会大衆党の代議士として1938年には国家総動員法の賛成演説をし、1940年の斎藤隆夫除名問題では除名に賛成し、これを契機に作られた聖戦貫徹議員連盟の常任幹事となった。そして1942年の翼賛選挙では非公認の立候補を取り下げている。戦後は社会党結成に尽力し、1959年3月12日に中国で「米帝国主義は日中共同の敵」と発言し、「中共」のご機嫌をとり、それに憤激した右翼少年に殺された。その場面は、初めて人が殺される場面を写真に写し、またTVフィルムとしても残っているものである、というのが私の浅沼観で、正直あまり評価できる人物ではなかった。不幸な死に方をしたから、ある種の神格化が行われただけだろう、と思っていた。

しかし、著者も山口の認識について述べるように、「ある意味哀しすぎるほど哀しい浅沼の一生」の「一端」に過ぎなかった。本書は山口二矢の評伝ノンフィクション作品として流通しているが、著者自身も述べるように山口という夭折者と浅沼という老政治家二人の物語であり、山口が中野坂上から新宿経由で小田急線をつかって玉川学園に通ったというところに、小田急線沿線在住でバイト先が中野坂上近辺という奇妙な一致に驚いたものの、私には浅沼伝としての興味を覚えた。

もっとも哀しいところは昭和17年の翼賛選挙を前にして「発狂」したところだろう。浅沼は左翼活動家だった早稲田在学時に相撲部という体育会系に属しながら左翼運動をしたため右翼色の強い体育会系にとって近親憎悪の対象である事件をきっかけに凄惨なリンチを加えられる。また関東大震災の時もあわや銃殺というところまでの危機に陥っているが、その志を変えることはなかった。その後、正式の政党に属し代議士として活動し始めると尊敬してやまない麻生久の軍に協力することを通しての社会主義政権樹立という戦略に献身して親軍的政治行動を行う。しかし、目指したものとは全く異なる大政翼賛会の成立に失望した麻生が死んでしまうと今までの自分の行動に自信を持てなくなってリンチ、検束、入獄という恐ろしさばかりが思い出され、巨体を震わせ「縛りにくる、縛りにくる!」と精神に変調をきたした。それまではどのような暴力に会おうと「志」という存在基盤があったことで恐怖に打ち勝つことができたが、それを失い空虚な巨体しか残っていない生の浅沼が現れている。

この「発狂」が後に中国への贖罪意識へとつながり、「日中共同の敵」という社会党左派をも驚かせる発言になったという。そしてこの発言が自らの命をも失う契機となったのだ。

ここで描かれる浅沼は本当に哀しい人物だ。庶子として生まれ、母の元を離れると家族の愛情にも恵まれず、左翼運動に入り込んでも難しい理論は分からずその巨体もあいまって浮いた存在でありながらもただ居続けた。その愚直な姿勢で頭角を現すが、戦中戦後の「日和見」な姿はまさに庶民そのものだった。

私のような浅沼認識の方はけっこう多いと思う。本書を山口二矢伝としてではなく、浅沼稲次郎伝としてお奨めする。

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2008年11月25日 (火)

沢木耕太郎『危機の宰相』文春文庫、2008年

いろいろと誤解していて、本書を読む機会を逃していた。本書の原型が『文藝春秋』に掲載された1977年は、生まれていないので、読むことはできないし、存在すらも知らないのは当然として、2006年にやっと単行本化された際、ずいぶんと話題になったが、読まなかった。

なぜなら「沢木耕太郎」って、書店で『深夜特急』を見かけて、かってに「西村京太郎」みたいな列車を舞台にしたミステリー作家だと思い込んでいて、それを読む気になれなかったという恥ずかしい勘違いが一点。あと、本書の主人公・池田勇人って、「貧乏人は麦を食え」で「中小企業はつぶれてもいい」という「ディス・インテリ」ないけ好かない奴だったが、首相になった際は、「低姿勢」「寛容と忍耐」というスタイルを通し、岸信介内閣時に既に策定されていた「経済成長戦略」を取り入れて、うまい具合に高度成長期の首相だった人でしょ、と勝手に思い込んでいて、魅力を感じなかった、という点がある。しかも『危機の宰相』っていうタイトルがどうも池田勇人と結びつかなかったところに違和感を感じたのだ。「危機の宰相」といったら、在任中に難しい判断を迫られるような事件があって、それへの対処にリーダーシップを発揮するようなイメージがあって、それが池田勇人というにふさわしくないとの感があったのだ。

しかし、本書を読むと池田勇人という人物は、苦労人で自覚的に「経済成長戦略」を取り入れた人物であることが分かり、彼と同様に大蔵省というエリート集団に属しながらも病気や挫折を味わった盟友やブレーンに支えられた魅力ある人物だということが分かる。そして、保守政治最大の危機であった安保闘争を受けての首相就任であり、また今まで気がつかなかったが、池田政権時、浅沼稲次郎刺殺事件(1960年10月12日)、嶋中邸襲撃事件(1961年2月1日)、ライシャワー刺傷事件(1964年3月24日)という10代の少年によるテロ事件も起きている。現在でも陰惨な事件が起こると1930年代のようだという感想がもらされるが、この時は時間的にも政治的にもその比ではない危機があったといえるだろう。しかし、それを帳消しにできるほど、池田は人心を安心させ、豊かにすることを可能にした。まさに「危機の宰相」だったのだろう。

また興味深いのが、池田とマスコミとの関係である。上記に挙げた「中小企業は~」とかの発言は新聞記者に嫌われていた池田へのネガティブキャンペーンの一環として「はめた」という側面があったらしい。しかし、その後、池田の人柄を理解するようになった記者たちは逆にゴーストライターをやるぐらいにまで池田人気があがったという。やはり政治家というものはマスコミ対応がうまくないとやっていけない商売なのだな、と思わせる。最近の安倍晋三氏や麻生太郎氏などは明らかにマスコミを眼の敵にしていたところがあり、そうした奴はいじめてやろうという気がおこるのも当然である。首相になる気があるのだったら、新聞記者との関係をもう少し考えた方がよかったのだろう。

あとは先ほど書いた岸内閣の「経済成長戦略」だが、これは池田周辺が唱えていた「所得二倍」のスローガンを福田赳夫が取り入れたためということらしく、しかもその内容は池田=下村治の考えていた民間主導の経済成長とは異なり、官主導の臭みを感じさせるもので表面は同じでも中身は異なるものだったらしい。やはり「所得二倍」を「所得倍増」へと導いた池田グループあっての「高度経済成長」だったのだ。しかもこの成長理論というのは当時のエコノミストの中では異端で、不可能と考えられていたし、成功すればしたらで「ひずみ」を問題にするという極めてゆがんだ言論空間だったようだ。もっとも万年危機の経済評論はいまでも健在だが、当時のそれはより深刻だったようだ。というのも資本主義の成功を喜ばないという雰囲気があったわけで、昔、『共同研究転向』の共同討議を読んでいて、出席者たちがこの経済成長時代を指して「いやな時代になったものだね」とうなずきあっているのを読んで唖然としたものである。そうした時代背景も本書は押さえている。

著者の「批判者たちの立論の変遷を辿っていくと、この国の「口舌の徒」に対する絶望感が襲ってくる」という指摘は現在にも十分あてはまり、噛み締めるべき言葉だな、と思わせる。

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2008年11月22日 (土)

萩原延壽『馬場辰猪 萩原延壽集1』朝日新聞社、2007年

アーネスト・サトウの生涯を追った『遠い崖』で著名な著者の最初の単行本で、吉野作造賞を受賞した記念すべき評伝作品。

初出は1966年6月号から同年12月号までの『中央公論』の連載で、すでに40年も昔の作品ということだが、文章の古さは特に感じることはなく、著者が石川淳に師事し安部公房を兄として敬愛していたことからもうかがえる文章の巧みさを感じる。

そもそも著者は岡義武に師事した日本近代政治史の研究者であったようだが、たしかに本書に見られるのは歴史的考察が主であるし、師匠の岡のようにエピソードによって語るというところがうまい。たとえば、有能な能吏であった祖父について「自伝」ではふれるものの、武芸には秀でていたが酒色におぼれ経済的才能もなく、どうやら女性関係で一時藩から「禁足」を受けるような父についての叙述はほとんどなく、それを反面教師として女性に対して当時の民権派の活動家とは異なり潔癖で、そのためかどうかは分からないが妹になにやら執着があったりというエピソードは単に「自伝」を読んでいただけでは分からない事情である。

また、上記のように文学的交流もみられたことから、馬場の心情に迫るという叙述が多く、歴史家の伝記というよりも作家のそれのようなおもむきがある。たとえば、二回目の英国留学から帰国するのを躊躇しているあたりの叙述で「観念としての民衆」と「事実としての民衆」の乖離が予測され、それに自分が耐えられるかどうかを自問している姿として、描くという手法は、その時の馬場に迫っているようにも感じるし、後の民権運動への絶望を暗示させていて、文が進むにつれて利いてくる、というような構成とか。

しかし、著者は「思想家」としての馬場を評価しているようだが、それについての考察はあまりない。もっとも詳しく述べられているのは加籐弘之との「人権新説論争」であるが、そこにしても馬場の発言を紹介し、それを元に加籐を批判するのみになってしまって、加籐の主張はもとより馬場の主張もあまり検討されていないのではないかと思えてしまう。それは馬場が「日本語で文章を書くのが不得手らしい」と噂されており、彼の日本語著作はほとんど講演筆記を印刷されたものであり、その印刷の過程で他人の手により修辞上の改変がなされていたので、文章から馬場の思想を正確に論じることの不可能さという事情もあったかもしれない。

たしかに講演を基にした『朝野新聞』連載の「読加籐弘之君人権新説」と慶應義塾出版社から公刊された『天賦人権論』には多少の変更があり、場合によっては全く意味が逆になってしまうような改変がなされているが、それが馬場の意思なのかどうかはわからないという事情を考えるとあまり突っ込んだ議論はしづらい。

しかし、加籐びいきの私からすれば、加籐を「藩閥政府のイデオローグ」というのはちょっとかわいそうで、客観的にはそうとしかいえないが、加籐本人としては「明治国家のイデオローグ」たらんとしてはいたが、「藩閥政府」のそれとは思っていなかっただろう。事実、20年代になると「藩閥政府」を専制政治の残滓として批判の目を向けているし、単に馬場も内心思っていたように民権運動家が頼りなく、この時期の「藩閥政府」の方がマシだと考えていたに過ぎないだろう。「転向」後も加籐の思惟傾向は丸山眞男が述べるように「自由と進歩と民権」であり「市民社会のイデオローグ(この場合の「市民社会」はブルジョワ社会の意味)」であり、労働者階級の政治への進出には警戒感を終始持ち続けたが、明治15年頃の士族民権・地主民権と求めるものとしてはそれほど変わらない(どちらかといえば、改進党的都市事業者民権に近いが)。加籐が警戒したのは、「天賦人権」の名の下に、無常の権力を与えられていると考えて何でもできてしまうと勘違いしてフランス革命にみられた「理性」の「暴政」が行われるのを恐怖しただけだ。「妄想」であろうと別にそこまで批判するほどでもなかろうという「天賦人権論」を加籐が否定する理由としてあげているのは、「暴政」への危険性である。

その辺で馬場はフランス革命の惨状は専制政府に原因があるので、ルソー的イデオロギーに原因を求めるのは本末転倒としていて、著者もそれに同意してしてしまっている。たしかにルソー的「天賦人権」にのみ原因を求める加籐の議論は粗雑だが、現在のフランス革命研究ではフランス王政が専制的であったから革命が起きたり、虐殺が行われたり、というものではなく、民衆の力を王が借りようとした過程でなし崩しに革命がおき、さらにイデオロギー的側面にかなり重点が置かれているように感じられるが、明治期のフランス革命に関する著作は基本的に専制政治の問題として片付けられていたんだろうか。また著者も1万人あまりが虐殺された革命というものの原因を単に専制政治のため、という馬場の言を本気で信じていたんだろうか。自由民権運動を論じる際、どうも民権派の主張に耳を傾けすぎるのは如何なものかな、と自由で民主的な社会を享受している私などはいつも考えてしまうのである。

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2008年11月18日 (火)

田母神論文余話―90年代の近代史ブームの効用

田母神論文の件が、まだ気になる。この論文は、90年代以降の近代史ブームの最終形態が一部マニアの目ではなく、全国放送や全国紙を通して一般の人々にその歴史観を知らしめたという点で画期的な事件だった。

90年代から2000年代初期に何故近代史ブームが起きたかといえば、宮沢喜一内閣の「従軍慰安婦」に関する「河野談話」、細川護煕首相の「侵略戦争」発言、村山富市内閣の「村山談話」と段階を踏んで政府が歴史について言及するようになったことをきっかけとして、従来政府を支持してした保守層が政府に対する異議申し立てをするようになったからだろう。それまでは政府=自民党は現在の眼から見ると普通の保守政権に過ぎなかったが、左派からは気を許せばいつでも「戦前」に戻そうとする危険なものだった。そのため、左派は自民党自体はもちろん歴史観に関しても批判を繰り返してきたが、右派もしくは保守層はそれから守ることに終始して政府自体を攻撃することはあまりなかった。それが上記の政府の発言により、右派までも反政府に回り、右派でも左派でもとりあえず反政府的でありたいという心情を持つ人々の心をつかんで右派的歴史ブームが起きたといえるのだと思う。

では、なぜこうした反政府的心情を左派が吸収できなかったといえば、簡単に言えば、左派の議論が難しかったこと、一般人の感覚からいえば自分は日本人であるという所与の心情が強くあるものだから過去であっても自分が属する共同体をサディスティックにおとしめる左派の議論は受け入れられないという気分があったのだろう。前者に関しては、一般人は専門の研究書は読まないし、左派研究者の啓蒙的著作が読めるのは岩波新書だったり、青木書店の本だったりするのでそれですら敷居が高く感じてしまう(しかも岩波書店は返品を受け付けていないので、地方の書店にはおいていないことが多い)。一般読者はユダヤ人陰謀論などの著作と並んでいる研究者よりも評論家、作家の作品の方が読みやすいし手に取りやすかった。後者に関しても、左派研究者や言論人は、「戦前」との連続性を感じさせる自民党的なものを自分たちとは全く異質なものと考えて、それらが守ろうとするものを攻撃することに急で、多くの国民が「戦前」との連続して生きていることや自民党を支えているという状態を無視して、彼らに不快感を与えていることに気がつかなかった。

また研究者は別として左派政治家や活動家、言論人の歴史知識もかなり粗雑だったことも右派支持拡大を手伝った。90年代後半に慰安婦問題が社会問題となり、多くの情報を皆が共有し始めた時点でさえ、テレビの討論番組で社民党幹事長だった伊藤茂氏が慰安婦問題に関して「トラックに乗って人狩りみたいなことをした」と発言し、同席していた大嶽秀夫京大教授に「それは嘘だと思います」とたしなめられ、驚愕した顔をしていたのを記憶している。この時期にしてテレビでこんなお粗末な発言をしてしまうあたりに左派への風当たりを強くしてしまう要因があった。

そんな左派の失策を土台にして90年代に自由主義史観研究会の『教科書が教えない歴史』が世に出て、小林よしのり氏の一連の活動や『新しい歴史教科書をつくる会』の誕生となり、オピニオン誌では『正論』『諸君!』が発行部数を拡大した。この動きも最初は極めて穏健なものだった。『教科書が~』は『王様のブランチ』でも紹介されていたぐらいだったし。

慰安婦問題の研究的バックボーンだった秦郁彦氏のそれも人狩り的なものがないと論証し、実は慰安婦には日本人の方が多かったと論じたに過ぎない。逆にそれまで流布していた軍に勝手に売春業者がくっついていただけと粗雑な認識を批判し、軍の関与は当然あったが、それが賠償問題に発展するかは別問題だとし、法的責任は免れるが、道義的責任はあると論じているように私には感じられた。慰安所に行列をなしている兵士の姿は復員兵たちには珍しくない光景だっただろうし、『兵隊やくざ』のような昔の映画を見れば、普通に慰安婦は出てきたりするのだから、一般の人には当然の存在だった。それに賠償問題や政府の責任問題に発展するのにストップをかけたのが秦氏の業績であり、慰安婦の過酷な状態を軍が黙認し、または業者に斡旋していた事実はあったのだから、道義的責任は免れないというのが秦氏の立場だろう。しかし、いつの間にか右派側では法的問題だけではなく道義的問題を慰安婦問題には存在しないかのような論調になっていった。

『新しい歴史教科書をつくる会』の教科書も今の右派の主張に比べればずいぶん穏健である。そもそもは「慰安婦」という「性」に関する生業もしくは制度を中学生に学校の授業で教えるのが適当かどうか、という問題であって、慰安婦の研究や事実を否定するものではなかった。また、近年では保守を計る指標とされる支那事変中の「南京事件」に関しても「日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た」と記し、東京裁判の項で内実について議論の余地はあるとしながらも事件自体は否定していない。というのも「虚構」説の姿を消したと評される『石井射太郎日記』の編者は教科書の監修・執筆者の伊藤隆氏であり、事件そのものを否定するには歴史研究者の常識では無理があったのである。

しかし、その後こうした右派・保守運動は先鋭化していく。小林よしのり氏は従来の「自虐史観」の相対化のため『戦争論』を書いたが、その後は単なる相対化ではなく「大東亜戦争肯定論」になってしまった印象を与えている。「南京事件」に関しても捕虜、投降兵、便衣兵など区別して法的に「虐殺」とされるものをあげていくと「なかった」となり、否定論に傾くが、多くの非武装の国民軍兵もしくは南京市民を「殺害」したことは否定していないようだから、「なかった」というメッセージを送るのはミスリーディングになるのではないかと感じたものである。法で考えるなら、シナ古代史の秦の白起による趙兵捕虜40万人生き埋めも、項羽の秦兵捕虜20万人の生き埋めも「虐殺」ではないんだろう。ここにも法的責任と道義的責任の問題が生じているが、道義的責任も否定する話になってしまっている。また当初は穏健だったはずの藤岡信勝氏も「大東亜戦争肯定論」者としての立場を確実にし、「南京事件」否定の東中野修道氏などと共に論陣を張り始めた(私は自由主義史観に関しては、最初の方しか知らなかったから、「自由主義史観」=「大東亜戦争肯定論」という決め付けに違和感を感じていたが、どうやらそれが正しいらしい)。おそらく単なる啓蒙団体に過ぎなかった自由主義史観研究会が政治団体への変異したために過激化したのだろう。

こうした流れの中で、それまでの保守からは逸脱しつつも穏健右派だった彼らが、極右になって「つくる会」ぐらいまでは着いていけた人も離れ始める。というのも、こうした近代史ブームは、単に彼らの議論に耳を傾けるだけの消極的な人だけではなく、能動的に歴史を学ぶ素人が増やしたことにある。そこで得たのは、極右的議論とは異なる歴史研究の厚みであり、非歴史研究者たちが話していたものが歴史研究のプロたちに一顧だにされていない現実だった。そこで学んだ人々が今回の田母神論文に冷笑している下地になったのではないだろうか。

しかし、こうした極右の突出ぶりと保守層との乖離は今回の事件までは明るみに出なかった。というのも、彼らをつなぎとめていたのは中韓からの「歴史認識」攻勢だった。極右の議論はついていけないものの、外国からの圧力で歴史を押し付けの認識を強要させられるのは、もともと反体制的で天邪鬼な保守層には我慢ができない。そこで小泉純一郎政権までは共闘できた。しかし、今回の事件に関しては中韓はほとんど問題にせず、静観を決め込んだ。そのため田母神論文に対する姿勢は、冷静に日本国内で批判することが可能となり、一部のマニアが問題ないとするのみで、歴史に興味のある人ほど支持がないようだ(yahooでは6割近くが支持と田母神氏はいっていたが、、)。中韓は自分たちの反発が日本のナショナリズムに火をつけるだけだと学んだようである。

さて、今後はどうなるか。90年代の近代史ブームは、左派の権威を打ち抜いた。これは評価してよいと思う。しかし、00年代になって先鋭化して極右化した議論も突出しすぎたし、中韓の反発がなくなったことで賞味期限が切れた。とすると、10年代は冷静で着実な歴史の検証が行われていくのではなかろうか。そこでは戦争責任を声高に叫ぶことも、日本の過去を過度に肯定することや汚点を否定する方向ではなく、何故あんなことが起きたか、どうすればよかったか、など事実に基いた議論が行われていくだろう。そこにはなんらエモーショナルな気分はない。そのため、政治的な思惑があって議論が行われることはなくなる。つまり、ブームは起きない。そして、20年費やしてやっと「歴史認識」問題は終わるんだろう。田母神論文事件は、最後の徒花として記憶されるんじゃなかろうか。

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猪木正道『評伝吉田茂2獅子の巻』ちくま学芸文庫、1995年

猪木史観による吉田茂伝の第2巻。時期は田中義一内閣期の奉天総領事から広田弘毅内閣の組閣参謀をやって幻の外務大臣となったあたりまで。

2巻まで来て、まだ戦前篇とは驚くばかりだが、猪木氏の関心の持ちようがわかる。しかも、外交資料を多用して、当時の臨場感を与えてくれて、好きな人にはたまらないが、ちと読むにはつらい。

しかし、吉田の中国観みたいのが知れて興味深い。

「第一、欧州戦後、民族自決等一時人口に上れる戦争の反動的思想をそのままに余り多くわれの聴従し過ぎたること。

第二、日支親善、共存共栄等の空言にとらわれ過ぎたること。

第三、対支国家機関の不統一」

が対中政策の失敗の原因との指摘は、帝国主義国の外交官としての外交観を語るとともに、第二などは現在においてもよく見られる現象であろう。

また本書初出は1978年から81年とのことだが、今現在でも悪名高く、しかし徐々に再評価されつつある田中義一を原敬、幣原喜重郎に連なる協調外交路線にある人物と位置づけ、山東出兵も田中は消極的であったが、居留民が現地中国政府からの徴税逃れのために出兵に圧力をかけたという関寛治の論文を引用し、私的利益による国策の影響を批判的にとらえているあたり興味深い。

また「個人に対するテロが歴史の進行を大きく変えることはないという一部史家の説は間違っている。残念ながらテロは歴史の動向に不吉な影響を及ぼす。大変よくない方向に国運をへし曲げるのである」(331頁)など、かのヤン・ウェンリー元帥がユリアン・ミンツをたしなめた発言を否定する名言などもある。

また、本書で描かれる昭和初期の政治を見ると、この時期の「国体明徴」のテーマは「天皇」であるが、現在のそれは「あの戦争」なのかも、と思える。両者ともに現実よりも理想やロマンを投影して、現実を否定しているあたりが似ている。猪木氏といえば、以前かの田母神論文を最優秀賞に選んだ渡部昇一氏に自民党議員の歴史観に大きな影響を及ぼしていて困った存在と批判されたが、そうした流れの一環なんだろうな、と思わせる。

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2008年11月14日 (金)

山田風太郎『幻燈辻馬車』上下、ちくま文庫、1997年

時代は明治初期。主人公は元会津藩士で妻を戊辰戦争で薩摩将校に死に至らしめられ、息子は主人公と共に西南戦争に薩摩への仕返しとばかり従軍したが戦死。その後は息子の残した孫と共に辻馬車を生業としている。その平和に暮らす祖父と孫の中に、政府による苛烈な弾圧にあっていた自由民権運動壮士たちと出会い、彼らの起こす事件に巻き込まれていく。。

『忍法創世記』とはうってかわって、こちらは名作。実際はとてつもなく強い剣豪であるにもかかわらず、戦いは西南戦争で懲りた復員兵士である主人公はまるで『壬生義士伝』の主人公のような哀感漂う人物造形をしていて、素晴らしい。また、『戦中派不戦日記』を読んで、やっと分かったが、風太郎先生の主人公が常に前時代の影響から逃れられず、新政府にはちょっかいを出しつつ反抗はせず、新しい人々(民権派など)に共感を覚えつつも全面的に献身はできないという非政治的な人物にするのは、本人が戦中派であるという呪縛から逃れられず、新時代の風潮や道徳に挑戦的な作品を世に出しからかい、選挙ではいつも共産党に投票しながらも細川護煕首相の「侵略戦争」発言に違和感を感じるという生き方そのものを表しているんだな、と。

本作では民権派の壮士について、史実を交えつつ、エンターテイメントしていく過程で勉強になる。あと「明治忠臣蔵」では、後藤新平がずいぶんと奇怪な人物として描かれていて面白かった。

登場する主な歴史上の人物

「幻燈辻馬車」

三遊亭円朝、4代目橘家円太郎、三島弥太郎、大山信子、山川健次郎、赤井景韶、花井お梅、八杉峯吉、来島恒喜、川上音二郎、川上貞奴、松旭斎天一、伊藤博文、徳富猪一郎、中江兆民、田山花袋、土肥庄次郎(松のや露八)、坪内逍遥、西郷四郎、嘉納治五郎、大山捨松、大山巌、斎藤歓之助、斎藤新太郎、河野広中、三島通庸、錦織晩香、志賀直道(三左衛門)、志賀直哉、鯉沼九八郎、琴田岩松、原胤昭、松田克之

「明治忠臣蔵」

相馬誠胤、戸田京子、志賀直道(三左衛門)、錦織剛清、後藤新平、陸奥宗光、志賀直哉、星亨、

「天衣無縫」

広沢真臣、福井かね、起田正一郎、安藤則命、大久保利通、木戸孝允

「絞首刑第一番」

山田吉亮(浅右衛門)

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2008年11月13日 (木)

山田風太郎『忍法創世記』小学館文庫、2005年

時代は南北朝末期。長年宿敵関係にあった柳生と伊賀の和解を実現するために柳生の三兄弟と伊賀の三姉妹の婚礼の儀が行われた。しかし、その後、柳生には中条兵庫守が、伊賀には世阿弥が現れ、北朝方に奪われようとする三種の神器を護るため、前者には剣法を、後者には忍法が伝授されようとしていた。そして、その背景には南朝併合を企む足利義満の陰謀があった。。

というような内容。自己の作品管理に厳しい風太郎先生は、この作品に不満を持ち、生前単行本化しなかったという。その理由の一つとして三種の神器を扱っていたからだとかまことしやかにささやかれていたようだが、はっきり言って風太郎先生の方針通り、あまり出来のいい作品ではなかったから、というのが理由だろう。

忍法ブームを作り出した風太郎先生の満を持しての伊賀忍法創世の物語にしては物足らない。私は大昔に風太郎先生の『婆沙羅』を読んで、あまりのつまらなさに風太郎忌避の傾向を作って、人生の大きな部分を損した気になったが、やはり室町ものは難しいのかな。風太郎ファンなら読むべき作品だが、最初にこれを読んでしまったら、ずいぶん不幸な風太郎体験になってしまうだろう。

登場する主な歴史上の人物

中条長秀、世阿弥、足利義満、後亀山天皇、細川頼之、日野業子など。

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2008年11月12日 (水)

山田風太郎『同日同刻』ちくま文庫、2006年

日米の開戦の日である昭和16年12月8日と終戦に至る昭和20年8月1日から15日までの同日同刻の記録を編集したノンフィクション作品。

これを読むと12月8日午前7時、徳富蘇峰は「皇国に幸運あれ、皇国に幸運あれ」と書きつつ、『近世日本国民史』で「征韓論」を書き、「若し征役直ちに利を得るといえども、その得る所、恐らくはその失う所を償うに足らず、況んや遠征歳月を経るに於てをや」と大久保利通の意見書を紹介していた。その一時間後には松岡洋右は三国同盟を一生の不覚として「僕は死んでも死にきれない」と泣き、戦後広島の原爆慰霊碑に「過ちは繰返しませぬから」と書いた旧制広島高校の雑賀教授は「頓狂な声で〝万歳〟を叫んだ」。そしてその頃、もっとも落ち着いていたのは、ルーズベルト米国大統領だった。

言論人である蘇峰と歴史家である蘇峰との相違や、日米関係に決定的な打撃を加えた松岡の涙、日本が狂喜し米国政府高官たちが慌てふためいているところ、悠然と構える大統領というように、ここに歴史の皮肉がみられる。先の田母神論文でルーズベルト陰謀説を非難していたが、ルーズベルトは追い込んだのだし、ある程度の情報は得ていただろうが、それを陰謀と唱えるのはずいぶん情けない。ルーズベルトの戦略勝ちであり、仮に非難するとすれば、それは日本人ではなく、米国海軍の遺族だろう。

しかし、8月の記録には身をつまされる。原爆の記録は、悲惨としか言いようがない。具体的には書かないが、これほどの惨事と恐怖の現場を体験し目撃した人たちがさらになお生き続けて日常生活を営んでいたというのに妙な驚きを感じてしまう。人間というのは、強い生物なんだな、と。戦中を生き抜いた人々は我々が想像できない強靭な精神力を持っている。

しかし、この時期に至るまで「一億玉砕」を叫び、「2000万の日本男子が特攻すれば、必ず勝利を得る」という東京の軍将校たちの精神構造とは如何ばかりなのだろうか。正直、よく分からない。それを分からない狂信者とするばかりで目を閉じても何も得るところはない。実際、狂信者はいただろう。しかし、ソ連が攻めてくると情報を得るとさっさと逃げてしまう関東軍のような姿を見ると、逆に人間らしく、まともに見えてしまうと思うと、やはり徹底抗戦を唱える軍の主張とは、自らの失敗を認め責任をとらされ、非難されることを恐れただけに過ぎないように思える。その点、最後までゴネて首相や外相を困らせつつも陸軍の暴発を抑え、玉音放送を前に自決した阿南陸軍大臣は立派である(どうでも良いが、阿南大臣は自決後、介錯を拒み、しばらく生きていたが、最後に義弟竹下中佐が頚動脈を短刀で切ったというが、こういうのは刑法的にどうなっていたのだろうか)。徹底抗戦を唱えつつも生き延びた人々はおそらくゲリラで死なすのは一般ゲリラで自分は頃合いを見て生き残る手合いだろう。こうした責任回避の官僚的習性をもった人々までも擁護しかねない大東亜戦争肯定論は有害だろう。

こうしてみると戦後の日本国民が軍事アレルギーになったのもうなずける。散々、偉そうにしていた関東軍が逃げ出すのを目撃しているわけだし、戦陣訓を示達した当時の陸軍大臣で日米戦争の象徴となり最後まで戦争継続を訴えていた東條英機が逮捕直前まで自決せず、しかも自決に失敗しているのを目の当たりにしているのだ。戦後教育や東京裁判のせいにしてはいけないだろう。

そんな中、さわやかなエピソードは、広島の第二総軍の教育参謀李鍝公殿下が原爆で死亡し、その後を受けてお付武官吉成弘中佐が殿下の死の直後に病院の芝生に正座してピストルで殉死したことだ。私はこの話を初めて知ったが、李鍝公がそれだけ立派な人物だったのだろうが、それを受けて殉死した日本軍人がいたことに驚き、感動した。

しかし、終戦の日(敗戦の日は14日)の記録でやはり白眉なのは著者山田風太郎自身の記録だろう。玉音放送を町の大衆食堂で聞いていた山田誠也は放送の難解さから「宣戦布告」の放送でしょう、と問うおかみに

「済んだ」/と、僕はいった。/「おばさん、日本は負けたんだ」/「く、口惜しい!」/一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。はげしい嗚咽の声が、そのふるえる肩の下から漏れている。みな死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨ともいうべき数分間であった。/四人は唖のように黙ったまま外へ出ていった。明るい。くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている。負けたのか?信じられない。この静かな夏の日の日本が、今の瞬間から、恥辱に満ちた敗戦国となったとは!/過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった。

誰も有名人が出るわけではなく、学生とまったく市井の人々の雰囲気を表していて、この国の多くの場所で見られたであろう情景を映し出している。それに比べて、「私は歌いだしたかった」と書く、加籐周一の自伝は同じ医学生でもこれだけ違うのかと思うほど、なんとも共感しがたい、つまらない記録である。帝大生と私大生の違いだろうか。

風太郎先生の底の深さを感じさせる作品で、しかも資料に語らせる力強さを感じさせる。

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2008年11月 5日 (水)

オバマ上院議員の勝利

バラク・オバマ氏、勝ちましたね。

私は9月あたりまでマケイン氏が勝つと思っていたから、日本での大統領選報道がオバマ、ヒラリー両氏にかたよった報道は大丈夫なんだろうか、と思ったものだったけど、ちゃんと既定どおりの進展で、時代が欲したということでしょう。しかし、オバマ氏の勝利は確実に9月からの金融危機が追い風となったわけだが、あの時期での金融危機は民主党支持の投資家の陰謀などという意見はでないだろうな。。

私が初めてオバマ氏を見たのは、ずいぶん前のピーター・バラカンさんが司会をしている『CBSドキュメント』で初の黒人大統領を目指せる人材として取り上げられた時だったが、「美男な黒人政治家がいるんだなぁ」と思ったし、黒人であることを強調しないし、中庸な思想の持ち主で、私も米国人ならこの人に投票するな、と思ったものです。まぁ、日本人としてはクリントン時代の悪夢がありますから、マケイン氏の方がマシだな、と思ったが、ヒラリー氏が敗退したので、どっちでもいいかとも考えてました。

で、既にささやかれている暗殺の危機ですが、少数の文明人と大多数の未開人で構成されているアメリカ合衆国という印象を我々に与えてくれないよう願います。ちょっと黒いトリビアだと、大統領選挙があった米国時間11月4日は87年前の日本で最初の本格的政党内閣を率いた原敬が東京駅南口で国鉄駅員に刺殺された日でもあります。その後の日本を考えるとテロはまったく惜しい人物ばかりの生命を奪うなぁ、思わせますので、こういうことが起きない事を願います。

年配者の私としてはオバマ効果でデンジャラスのノッチの再ブレークも重ねて願います。

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2008年11月 4日 (火)

「日本は侵略国家であったのか」

田母神俊雄元幕僚長の話題の論文。こちらで読んでみたが、少々がっかり。自衛隊航空幕僚長ぐらいの地位にあった者の論文がこの程度で、しかも懸賞論文で優勝してしまうとは。正直、『正論』や『諸君!』をひらけば、よくありそうな内容で、参考にあがっているのも、ほとんど学術論文とはいえないものばかりで、これらの主張の層がアンチアカデミズムであるのがよく分かる。しかし、今回のような迅速な更迭をみると日本はずいぶんとシビリアンコントロールのしっかりした国なんだな、と思わせる。軍人を甘やかさないという点で戦前の教訓が生きているんだな、と安心した。

内容において植民地統治に関しては、そういうところもあったんだろうな、という印象が私にもあるが、そもそも植民地統治の問題は「東京裁判史観」と関わりがあるんだろうか。東京裁判について詳しく知っているわけではないが、審議の範囲は1928年以降だし、判事側の英、仏、蘭などはいまだに海外領土を持つ植民地帝国であるし、この審議中フランスはインドシナを再占領しようとしてインドシナ戦争の真っ最中である。こうした中で植民地統治に関して審議が行われたんだったかな。やはり問題は条約で決められた範囲への逸脱にあったのであって、そのあたりはすべて外国の陰謀で済ませているあたり、この論文のまずいところだ。そもそも張作霖爆殺事件をKGB犯行説って、10年ぐらい前に出てきた話だが、当時の日本側資料からして成り立たないんじゃないか。

それに国際法上認められた軍の駐留や植民地云々の話をすれば、西洋諸国の植民地や海外領土への侵犯をした大東亜戦争を肯定することはできない。国際法を持ち出すなら、日本の統治はよくて西洋のそれは残虐であったからよくないとはいえない。どちらも「認められた」範囲内での話である。大東亜戦争肯定論なら、西欧の都合で作られた国際法それ自体を否定する当時の「現状打破」勢力の意見を突き詰めるべきで、国際法などで自らの主張を補強すべきではない。

私がこの手の主張で一番気に入らないのが、「侵略」は東京裁判で決められたことだ、とか戦後教育によって「マインドコントロール」された、とかカルト的臭みを漂わせることにある。保守派のつむぎだす「戦前」の歴史それ自体を否定する気にはならないが、当時のある程度の情報を得ていた政治家、官僚、軍人、知識人が「支那事変」や大東亜戦争を「侵略」と考えていたことを留意すべきだ。侵略と考えていたからこそ、その意味を変えようとした人々(たとえば竹内好や重光葵とか)がいたわけで、東京裁判史観とはまるで関係ない。先週取り上げた田中清玄や猪木正道氏なども戦後教育による効果とは思えない(ちなみに猪木氏が防衛大学校長に就任したのは1970年7月で田母神氏が卒業したのは71年3月。猪木史観の洗礼は受けていないようだが、ある意味自衛隊への視線が厳しかった時期に学生生活を送っていたという点でこのような史観を持たざるを得なかったのは同情に価する)。

戦後を代表する保守思想家でこれまた戦中派のちょっと上の福田恆存なども「あの戦争」は侵略だと思っていたと記憶するが、「だから、何?」というぐらいの強さがあって、戦争に道義性を持ち込まなくては我慢できないというような脆弱性はない。近年の保守派がウヨク化(現実主義よりロマン主義的)しているのは、どうも精神的な弱さの表れにしか見えない。過剰に日本を「侵略国家」だ、という必要はないが、過剰に日本を美化する必要はない。かつて「自由主義史観」とか「新しい歴史教科書をつくる会」って、そんな主張をしていたように思えたが、それを超えた亜流が自衛隊の幹部にまで浸透していたとはずいぶん寂しい限りだ。

しかし、まぁ、新聞報道の「識者」の人選も人を見れば何を言うか分かるよ、という「定型」的なコメントする人ばかりでつまらない。こういう時は信頼のおける教科書でも読むのが一番でしょう↓。

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