松田宏一郎『陸羯南』ミネルヴァ書房、2008年
本年度サントリー学芸賞政治・経済部門を『江戸の知識から明治の政治へ』で受賞した著者の初の一般読者向けの新刊。
本書の特徴は、膨大な資料を踏まえた事実の叙述と分厚い研究史の蓄積を踏まえた隙のない論述により、羯南の生い立ちから、明治20年代のジャーナリズム勃興時代の立ち位置や従来、他の言論人や政治勢力から超然とした言論活動をしていたと思われていた羯南の政界人脈を明らかにして、明治政治史・社会史の中の羯南像を提示してくれている。、また、もちろん著者専門の思想史研究から羯南が学んだ西欧の文献を渉猟して、その知の基盤を探り、羯南自身の著作への鋭い分析をみせてくれる。その上、引用文を大胆に「現代文(に近い文体)」に変えることによって、引用文の挿入により地の文との文体の違いから読書のリズムを崩してしまうというような思想史の著作を読む際に感じる精神的負荷から解放してくれている。これにより、一般の読者にも最前線の政治史、社会史、思想史の研究を踏まえた陸羯南への接近を可能にしてくれている。私なんぞも、最初は「あれ、羯南ってこんなに分かりやすかったっけ??」と思ってしまったが、すいすい読めてしまう。
あとがきにも書いてあるが、著者は20余年前に陸羯南をテーマに博士論文を書いている。著者が羯南に惹かれたのは、「思想」というものの魅力がうせ、知識人の役割が「思想抜きの歴史」「思想抜きの政治」「思想抜きの事実」や思想を生々しい「政治的な思想抜きの思想」の紹介者として転換した70,80年代に、明治20年代の羯南が「自由平等の義、改進保守の異、抽象的の説を以て政論の基礎」とする「批評の時代」から「経済当否の理、法律利害の点、現実的の議」という「適用の時代」が到来したと述べていることに同時代性を感じたのではないか、と私は勝手に考えていた。本書を読んでも、その印象は変わらず、羯南の着実な現実志向の言論活動に対して好意的な論評を与えているように思える。
しかし、一方で羯南の政治思想の部分、丸山眞男「陸羯南―人と思想」(1947年)で評価されたような「健康なナショナリズムの論理」というものには、著者は懐疑的で批判の目を向ける。著者は羯南の「「国民主義」の主張は、一見深遠な教義があるかのような素振りを見せることによって、共同的共感の名の下に、政治的判断の矛盾や虚偽を覆い隠すナショナリズム一般の危険な性格を内包していた」(114頁)と述べ、「「国民主義」とは価値の内実を問うことではなく、「自負」を持とうとする意欲自体が価値である」という「空疎としかいいようのない精神主義以外に「国民主義」の中身はない」(116頁)と断じている。
参考文献に挙げられている著者の過去の羯南研究でここまで明確に羯南の「国民主義」批判を明確にしていたということはなかったと思う。それよりもイデオロギー闘争的な政治社会の場から、それから独立した政治言語を操る場をつくる装置として「国民主義」を評価する手続きを取っていたんだと記憶している(間違ってるかもしれないけど)。たぶん未発表の研究の部分で、そこのところを検討して羯南に失望したのかもしれない。その後の研究論文を集めた『江戸の知識~』では索引に「陸羯南」がないぐらいだし。
そして、著者が思ったかどうかは分からないが「適用の時代」と思われた90年代は、それ以前にもまして、政治的布置があらかじめ配置された「主義」による批判の応酬の近代史ブームがおき(参照)、また羯南の時代も議会の発足や東アジア情勢から似たような状況になっている。「そっち系」の雑誌の見出しには「21世紀の東アジア情勢は日清戦争前の状況」というようなのをたまに見かけるが、どちらの時代も本書が描いているように知の大衆化により、過激な言論が喜ばれ、冷静な議論をするジャーナリズムは下降していく。羯南の見通しは外れてしまい、その政論家としてのプライドのため、『日本』の経営が立ち行かなくなる。
そうした状況を見かねてか、著者は羯南のナショナリズム論を批判するついでに現在のそれをも皮肉をこめて言及しているのが、面白い。しかし、「これは危険な兆候だ!」的に言及していたら、著者も同じ過ちを犯してしまうのでそうはいかず、そうした言論に冷ややかな雰囲気を残しているところに著者の意気を感じます。しかし、過激な近代史ブームも下火になった現在に本書が出てよかったなぁ、とも思う。もし本書が近代史ブームがまだ余燼をくすぶっていた2000年前後に出ていたら、「そっち系」の反対の「あっち系」からの寄稿のオファーが舞い込む可能性があり、著者も困惑していただろう。
それはともかく、著者の述べる羯南の面目は「冷静とも言える一種の政治メディア批判の傾向」である。その真骨頂は、本書を読んでいただいて、各人で確かめてほしい。さまざまな政治勢力と言論が飛び交う分かりにくい明治20年代を理解するのにお奨めの作品です。
余談だが、14頁の司法省学校時代の写真の羯南は、本当に後年の紳士顔した羯南と同一人物なんだろうか。あまりのBad Boyな風貌に、こりゃ友達になれません、と思いました。。
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