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2008年12月 6日 (土)

植原悦二郎『日本民権発達史 第壱巻』その1

植原悦二郎は大正・昭和期の政治家。前半生は、米国・英国への遊学・留学をし、帰国後は私大を中心に政治学・憲法学を講じ、天皇には統治権はあるが、主権は国民にあるという国民主権論を提唱した。これは親交のあった石橋湛山にも影響を与えた。その後、1917年犬養毅の求めに応じて、立憲国民党から衆議院選挙に立候補し当選。衆議院副議長まで務めたが、翼賛選挙では落選。戦後、鳩山一郎らと日本自由党を結成し、第一次吉田茂内閣で国務大臣として初入閣した。現行の日本国憲法には国務大臣として憲法改正案に副署しているが、非武装規定、衆参議院の同質性、地方自治制度の財源問題、憲法改正が困難というような論点から不賛成である旨を閣議で訴えたが、幣原喜重郎にたしなめられ、しぶしぶ署名したという。

そういう人物が、1916年(大正5年)に上梓し、1958年(昭和33年)に日本民主協会から再刊されたのが本書である。全5巻だが、後半はどうやら植原の筆ではないらしい。とりあえず、読んだ部分をメモ代りに少しずつ感想を書いてみる。

第一章 明治維新の政変

植原は、まず天皇の歴史から書き起こすがきわめて簡単に、最初期の天皇は政権を左右する軍事及び祭祀の実験を握っていたが、時代の推移と共に天皇の近親者に権力が移り、後に武士に統治権が左右されたというように「君主が親しく政権を左右し給ひし事実はないように思われる」という。しかし、一方で「名義上の統治者であった」ことから「政争以外に超越して泰然と在ましませしことと、皇室の連綿たりしことには、深き関係がある」と皇室の存続を願う者はその点を留意すべしと注意を促している。

徳川政権の特徴は、地方分権の専制制度であり、各大小名に領土内の統治権を付与し、封建的地方分権を確立していたが、一方で巧妙なる間諜組織によって、つまり外様大名と譜代大名、譜代大名間の相互監視による牽制を通して統治したことにあるという。それが我が国民の「陰険なる性格、熱烈なる嫉妬心及び島国的根性」を育てたという。

植原は維新の原因を「智的運動」すなわち学問の振興によるという。儒教的大義名分論による史学や国学の誕生による天皇の浮上、洋学の発展による鎖国主義の不可能性など。とりわけ前者の問題に関して、何故幕末期に政治的シンボルとして天皇が浮上したかは今もってもよく分からないそうだが、明治・大正期の歴史観においては儒教とりわけ朱子学の大義名分論が徳川統治を揺るがしたというイデオロギーの側面を指摘するものが主流派を占めていたのかもしれない。フランス革命を「ルソー主義」に原因を求める加籐弘之なども同様の歴史観を有していた。

植原によれば、幕末期の諸政治勢力=攘夷党、開国党、王政復古党や佐幕党も含めてすべての勢力が国内の統一、つまり封建的分権制度の改革という点で一致していたという。当時の欧米人の見解として、名義上統治権が天皇に奉還したとはいえ、軍備も財源も乏しい中央政府に何故諸藩は転覆を企てなかったのか、また財政的援助を惜しまなかったかに疑問を有していたという。しかし、外国からの圧力への恐れが、当時の人々には共通した認識としてあって、とにかく皇室を中心とした国内統一が至上命題だと考えられたから、だと植原は述べる。

また攘夷党が何故開国主義に移行するのに納得できたかといえば、神の如く思われた天皇が夷狄と見なされた謁見したという事件が影響したと植原は述べている。(つづく)

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