2008年11月14日 (金)

山田風太郎『幻燈辻馬車』上下、ちくま文庫、1997年

時代は明治初期。主人公は元会津藩士で妻を戊辰戦争で薩摩将校に死に至らしめられ、息子は主人公と共に西南戦争に薩摩への仕返しとばかり従軍したが戦死。その後は息子の残した孫と共に辻馬車を生業としている。その平和に暮らす祖父と孫の中に、政府による苛烈な弾圧にあっていた自由民権運動壮士たちと出会い、彼らの起こす事件に巻き込まれていく。。

『忍法創世記』とはうってかわって、こちらは名作。実際はとてつもなく強い剣豪であるにもかかわらず、戦いは西南戦争で懲りた復員兵士である主人公はまるで『壬生義士伝』の主人公のような哀感漂う人物造形をしていて、素晴らしい。また、『戦中派不戦日記』を読んで、やっと分かったが、風太郎先生の主人公が常に前時代の影響から逃れられず、新政府にはちょっかいを出しつつ反抗はせず、新しい人々(民権派など)に共感を覚えつつも全面的に献身はできないという非政治的な人物にするのは、本人が戦中派であるという呪縛から逃れられず、新時代の風潮や道徳に挑戦的な作品を世に出しからかい、選挙ではいつも共産党に投票しながらも細川護煕首相の「侵略戦争」発言に違和感を感じるという生き方そのものを表しているんだな、と。

本作では民権派の壮士について、史実を交えつつ、エンターテイメントしていく過程で勉強になる。あと「明治忠臣蔵」では、後藤新平がずいぶんと奇怪な人物として描かれていて面白かった。

登場する主な歴史上の人物

「幻燈辻馬車」

三遊亭円朝、4代目橘家円太郎、三島弥太郎、大山信子、山川健次郎、赤井景韶、花井お梅、八杉峯吉、来島恒喜、川上音二郎、川上貞奴、松旭斎天一、伊藤博文、徳富猪一郎、中江兆民、田山花袋、土肥庄次郎(松のや露八)、坪内逍遥、西郷四郎、嘉納治五郎、大山捨松、大山巌、斎藤歓之助、斎藤新太郎、河野広中、三島通庸、錦織晩香、志賀直道(三左衛門)、志賀直哉、鯉沼九八郎、琴田岩松、原胤昭、松田克之

「明治忠臣蔵」

相馬誠胤、戸田京子、志賀直道(三左衛門)、錦織剛清、後藤新平、陸奥宗光、志賀直哉、星亨、

「天衣無縫」

広沢真臣、福井かね、起田正一郎、安藤則命、大久保利通、木戸孝允

「絞首刑第一番」

山田吉亮(浅右衛門)

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2008年11月13日 (木)

山田風太郎『忍法創世記』小学館文庫、2005年

時代は南北朝末期。長年宿敵関係にあった柳生と伊賀の和解を実現するために柳生の三兄弟と伊賀の三姉妹の婚礼の儀が行われた。しかし、その後、柳生には中条兵庫守が、伊賀には世阿弥が現れ、北朝方に奪われようとする三種の神器を護るため、前者には剣法を、後者には忍法が伝授されようとしていた。そして、その背景には南朝併合を企む足利義満の陰謀があった。。

というような内容。自己の作品管理に厳しい風太郎先生は、この作品に不満を持ち、生前単行本化しなかったという。その理由の一つとして三種の神器を扱っていたからだとかまことしやかにささやかれていたようだが、はっきり言って風太郎先生の方針通り、あまり出来のいい作品ではなかったから、というのが理由だろう。

忍法ブームを作り出した風太郎先生の満を持しての伊賀忍法創世の物語にしては物足らない。私は大昔に風太郎先生の『婆沙羅』を読んで、あまりのつまらなさに風太郎忌避の傾向を作って、人生の大きな部分を損した気になったが、やはり室町ものは難しいのかな。風太郎ファンなら読むべき作品だが、最初にこれを読んでしまったら、ずいぶん不幸な風太郎体験になってしまうだろう。

登場する主な歴史上の人物

中条長秀、世阿弥、足利義満、後亀山天皇、細川頼之、日野業子など。

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2008年11月12日 (水)

山田風太郎『同日同刻』ちくま文庫、2006年

日米の開戦の日である昭和16年12月8日と終戦に至る昭和20年8月1日から15日までの同日同刻の記録を編集したノンフィクション作品。

これを読むと12月8日午前7時、徳富蘇峰は「皇国に幸運あれ、皇国に幸運あれ」と書きつつ、『近世日本国民史』で「征韓論」を書き、「若し征役直ちに利を得るといえども、その得る所、恐らくはその失う所を償うに足らず、況んや遠征歳月を経るに於てをや」と大久保利通の意見書を紹介していた。その一時間後には松岡洋右は三国同盟を一生の不覚として「僕は死んでも死にきれない」と泣き、戦後広島の原爆慰霊碑に「過ちは繰返しませぬから」と書いた旧制広島高校の雑賀教授は「頓狂な声で〝万歳〟を叫んだ」。そしてその頃、もっとも落ち着いていたのは、ルーズベルト米国大統領だった。

言論人である蘇峰と歴史家である蘇峰との相違や、日米関係に決定的な打撃を加えた松岡の涙、日本が狂喜し米国政府高官たちが慌てふためいているところ、悠然と構える大統領というように、ここに歴史の皮肉がみられる。先の田母神論文でルーズベルト陰謀説を非難していたが、ルーズベルトは追い込んだのだし、ある程度の情報は得ていただろうが、それを陰謀と唱えるのはずいぶん情けない。ルーズベルトの戦略勝ちであり、仮に非難するとすれば、それは日本人ではなく、米国海軍の遺族だろう。

しかし、8月の記録には身をつまされる。原爆の記録は、悲惨としか言いようがない。具体的には書かないが、これほどの惨事と恐怖の現場を体験し目撃した人たちがさらになお生き続けて日常生活を営んでいたというのに妙な驚きを感じてしまう。人間というのは、強い生物なんだな、と。戦中を生き抜いた人々は我々が想像できない強靭な精神力を持っている。

しかし、この時期に至るまで「一億玉砕」を叫び、「2000万の日本男子が特攻すれば、必ず勝利を得る」という東京の軍将校たちの精神構造とは如何ばかりなのだろうか。正直、よく分からない。それを分からない狂信者とするばかりで目を閉じても何も得るところはない。実際、狂信者はいただろう。しかし、ソ連が攻めてくると情報を得るとさっさと逃げてしまう関東軍のような姿を見ると、逆に人間らしく、まともに見えてしまうと思うと、やはり徹底抗戦を唱える軍の主張とは、自らの失敗を認め責任をとらされ、非難されることを恐れただけに過ぎないように思える。その点、最後までゴネて首相や外相を困らせつつも陸軍の暴発を抑え、玉音放送を前に自決した阿南陸軍大臣は立派である(どうでも良いが、阿南大臣は自決後、介錯を拒み、しばらく生きていたが、最後に義弟竹下中佐が頚動脈を短刀で切ったというが、こういうのは刑法的にどうなっていたのだろうか)。徹底抗戦を唱えつつも生き延びた人々はおそらくゲリラで死なすのは一般ゲリラで自分は頃合いを見て生き残る手合いだろう。こうした責任回避の官僚的習性をもった人々までも擁護しかねない大東亜戦争肯定論は有害だろう。

こうしてみると戦後の日本国民が軍事アレルギーになったのもうなずける。散々、偉そうにしていた関東軍が逃げ出すのを目撃しているわけだし、戦陣訓を示達した当時の陸軍大臣で日米戦争の象徴となり最後まで戦争継続を訴えていた東條英機が逮捕直前まで自決せず、しかも自決に失敗しているのを目の当たりにしているのだ。戦後教育や東京裁判のせいにしてはいけないだろう。

そんな中、さわやかなエピソードは、広島の第二総軍の教育参謀李鍝公殿下が原爆で死亡し、その後を受けてお付武官吉成弘中佐が殿下の死の直後に病院の芝生に正座してピストルで殉死したことだ。私はこの話を初めて知ったが、李鍝公がそれだけ立派な人物だったのだろうが、それを受けて殉死した日本軍人がいたことに驚き、感動した。

しかし、終戦の日(敗戦の日は14日)の記録でやはり白眉なのは著者山田風太郎自身の記録だろう。玉音放送を町の大衆食堂で聞いていた山田誠也は放送の難解さから「宣戦布告」の放送でしょう、と問うおかみに

「済んだ」/と、僕はいった。/「おばさん、日本は負けたんだ」/「く、口惜しい!」/一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。はげしい嗚咽の声が、そのふるえる肩の下から漏れている。みな死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨ともいうべき数分間であった。/四人は唖のように黙ったまま外へ出ていった。明るい。くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている。負けたのか?信じられない。この静かな夏の日の日本が、今の瞬間から、恥辱に満ちた敗戦国となったとは!/過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった。

誰も有名人が出るわけではなく、学生とまったく市井の人々の雰囲気を表していて、この国の多くの場所で見られたであろう情景を映し出している。それに比べて、「私は歌いだしたかった」と書く、加籐周一の自伝は同じ医学生でもこれだけ違うのかと思うほど、なんとも共感しがたい、つまらない記録である。帝大生と私大生の違いだろうか。

風太郎先生の底の深さを感じさせる作品で、しかも資料に語らせる力強さを感じさせる。

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2008年8月13日 (水)

山田風太郎『新装版 戦中派不戦日記』講談社文庫、2002年

中学・高校の時から、書店では見かけていたが、どうも読む気がしなかった。なんか題名からして、「この愚かな戦時下にあって、戦争には協力せず、反戦の志をもって書いた」とかトクトクと書かれては、ずいぶんと当時の人々を馬鹿にした話だし、インテリぶって、いけ好かないねぇ、といった印象を持ってしまったからだ。おそらく私が当時生きていたら、死にたくねぇなぁと思いつつ、戦争の遂行と帝国の勝利を信じている、もしくは願っている「愚か」な大衆の一人だと思うし。山田風太郎を読むようになってからも、風太郎先生がそんな時代に迎合した恥知らずな日記を公開していたら、失望しちゃうな、と思って敬遠していた。

しかし、まったくの誤解でした。後の風太郎先生である山田誠也青年は、敗戦の日である8月14日未明に友人と自分たちだけでもゲリラ部隊を組織して、一兵となっても戦争継続をしようと語り合うほどの憂国の士であったようです。

こんな戦争映画やドラマで、視聴者に「余計なこというなよ」と思わせてしまう狂信的な人物であったことをあえて公開してしまう風太郎先生はやはり偉かった。

しかも狂信的である誠也青年は、一方で合理的で、日本人の「科学」教育の欠如を憂い、日本精神鼓吹者を軽蔑するリアリストであったりする。この矛盾は何であろうかな、と思うが、おそらく単に帝国主義的野心から追い詰められた「自存自衛」の戦争に過ぎない「大東亜戦争」を「アジア解放」や「世界史的使命」というように意味づけて、嘘をホントにしてしまおうとした竹内好や他の頭のいい人たちがやったように、まったく信じてもいなかった「日本精神」を本当のものにしようとしたというロマンティックでニヒリスティックな気分が彼をして、そのような行動に赴かせたのではなかろうか。これは彼の同級生を含めた同胞の死が、戦勝国の占領政策によって単なる「愚行」として片付けられることを鋭敏な誠也青年には予測されて、そのような無意味な死にはさせない、したくないという同時代人特有の使命感があったためだろう。

しかし、この企ては以前同様のことを考えたが挫折した級友の冷笑によって熱が冷め、翌日の「玉音放送」によって完全に断念させられた。これから考えると彼の「忍法帖」がたいてい使命を果たして死んでいくというパターンは、死すべき時に死ねなかった自分の本当の姿を描いている、ともいえる。

さらに面白いのが、誠也青年の憂国・愛国の感情が、完全な日本政府、日本民族への絶望から反転していく過程で、そのきっかけとなったのが鈴木貫太郎内閣の日ソ交渉を伝え聞いたことによるところだ。このような失敗が目に見えている外交政策に期待する政府に失望し、その後、日本の敗北が頭をかすめるようになり、日本民族の未熟さや幼稚さを述べたものの引用や言及がつづき、絶望の果てに徹底抗戦を述べるようになる。これは、愛国の情よりも、このような劣等民族は滅びてしまえ、というような自暴自棄な叫びである。そして、ソ連への宣戦布告を期待した8月15日正午の「玉音放送」は降伏の宣言であり、この情景を描いた8月16日の記述は他の終戦物語を圧倒する美しい文章である。そこには誠也青年同様に失望する人々と世の変化に関係なくアイスキャンデー屋に群がる子供たちや女剣劇を楽しむ庶民の姿が描かれている。そして、9月に入ると矮小な政府指導者たちの姿や占領軍におもねるジャーナリズムや知識人たちの変貌に鋭い批判の目を向ける。天皇個人には敬愛の念を抱きつつも、皇族将軍の自己弁護に失望して、「天皇制」にも疑問を持ちはじめる。

こうして誠也青年は、何も信じられなくなった。この体験が、彼をしてナンセンスな小説を描いていく下地になっていったのだろう。意味のあるものを書いても、その意味を信じられなくなる日が必ず来ると思って。後年の山田風太郎は、選挙ではいつも共産党に投票していたといっている。「絶対に政権につくことはないから」と本人も言っているが、おそらく自分が選んだ政治家が実際に権力を行使することを嫌ったためだろう。ちなみに風太郎先生は、細川護煕首相の「侵略戦争発言」に反発した文章を残している。こういう矛盾したような投票行動する戦中派老人って、意外と多いのではなかろうか。

余談だが、加藤弘之、斎藤隆夫(加藤を私淑)、山田風太郎(加藤の遠縁、晩年に知る)という兵庫県但馬出身者は、何故こうも共通して「戦争に正義はない」、反戦は無意味、人間は動物に過ぎず目的もない利己的な存在、日本人の「科学」的精神の欠如を憂う、神の不在を確信する唯物主義者というようなペシミスティックでリアリスティックな人々なのであろうか。また、なぜそういう三人に私は魅かれるのだろうか。

これらは今日の私の一つの読み方であって、また別の読み方もいく通りもできる作品である。そういうのを名作というんだろうが、後半を読んでいくと、本当に面白く、夜が明けるのを忘れ、読後興奮して眠れないほどであった。読んでいない方には、8月分だけでもぜひお薦めしたい。

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2008年2月14日 (木)

山田風太郎『警視庁草紙 下』ちくま文庫、1997年

山田風太郎の長編小説は、前半は多少退屈させて、途中放棄も可能なものもあるが、後半にいたるとまったく違う。面白すぎる。本作も、この傾向を持っており、正直私はこれが明治小説の中でもっとも評価が高いのに疑問を持っていた。読後も、『明治断頭台』や『エドの舞踏会』には及ばないものの、しかし、下巻にいたると加速度的に面白さが増し、傑作に入るものであろうと確信した。

こうした傾向の原因は、何かと考えるに、とりあえず私はあまりミステリーというか、殺人事件のトリックに興味がないので、序盤の人物紹介を兼ねた事件物を読んでも、それほど先が気にならないというものがあるだろう。私は、やはり歴史好きで、風太郎先生の人物描写の妙が好きなのだ。その点で、風太郎先生の後半からの作品は、途中現れた何気ない人物が、実は歴史上の人物だったのだ、という謎解きのような作品があり、これが面白い。作中現れる老巾着切り・むささびの吉五郎こと沼崎吉五郎が、伝馬牢の牢名主で吉田松陰の「見はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」で有名な絶筆『留魂録』を後世に伝えた人物であったということを描いた「吉五郎流恨録」は秀逸。というか、てっきり私は『留魂録』は、幕末の長州に送られて、彼らを鼓舞したものと思っていたら、明治9年に沼崎が松陰の弟子で神奈川県令だった野村靖に届けたことで世に出たとは知らなかった。自分の無知を恥じるばかり。

そこで語られる物語は、松陰に遺著を託された吉五郎は、三宅島に流され、それを守るため、笑い絵(春画)を用いて島民や同囚らをだますトリックを使う。このあたりはもちろん創作であろうが、エロティシズムが人間を混乱に落としいれ、秩序も創るという風太郎先生らしい群像劇が素晴しく、また島を出る際は連載中(1973年7月~74年12月)に起きた小野田寛郎少尉帰国の事件(1974年3月12日)を使っているのも面白い。

またたびたび現れていた妖女も実は明治の毒婦・高橋お伝で、彼女を主人公にした「妖恋高橋お伝」は、たった一度の殺人で「毒婦」にされてしまった女ををただの好色な女に変え、「毒婦伝説」を破壊している。といっても、風太郎先生は、お伝を貶める気持ちはなく、ただ性欲が旺盛な女として描いているに過ぎない。篠田鑛造編著『明治百話』の第一篇「首斬り朝右衛門」で最後の首斬り役人・八代目山田朝右衛門が、お伝を斬り損ねているエピソードをかつて夜鷹であったお伝と山田が関係していたとするのは、なるほどと思わせてくれる。

また秀逸な短篇「天皇お庭番」は、視点が旧幕臣で明治政府に反感をもつ主人公をあてている本作で、幕府側に著者が肩入れしているのかと思えば、作中もっとも残虐な犯罪を旧幕府のお庭番にさせていることで、必ずしも風太郎先生が幕府を持ち上げているわけではないことを示している。この作品は、お得意の忍法帖的手法で、一篇としても完成度の高い異質な作品となっている。

本作で、影のように現れては消えるもう一つの主人公は、大久保利通暗殺を実行した島田一郎ら4人である。彼らは、さまざまな事件に裏から関わってきており、主人公・千羽兵四郎らが、明治政府をからかっているだけで、やりたくてもやれないことをやってしまった影としての役割を果たしている。本作は、川路大警視を巨大な敵として設定しているが、その背後には、大久保がいる。まさに大久保時代を描いた作品であり、大久保・川路の権謀術数を辞さない力の政治と井上馨に象徴される金権政治との相克を描き、前者が敗れるものの、その謀略手法は生き残り、後年の破滅を予感させている。また、西南戦争を薩摩に恨みを持つ、会津や旧幕臣らを動員するために起したと思わせるラストも戦争による国民創出・動員体制を描いているような面がある。

こうして最後まで読み進めると、明治国家の縮図を明治初期に凝縮させる手法に圧倒され、山田風太郎恐るべし、という感を強くしてしまった。

登場する主な歴史上の人物

佐川官兵衛、黒田清隆、賀古鶴所、玉木真人、乃木希典、野村靖、浅井寿篤、高橋お伝、熊坂長庵、山城屋和助、山県有朋、柴五郎、山岡鉄舟、清水次郎長、清水定吉など(下巻登場のみ)。

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2008年2月 7日 (木)

山田風太郎『警視庁草紙 上』ちくま文庫、1997年

山田風太郎の明治小説の第一作目。

初代警視総監川路利良を先頭に近代化を推し進める警視庁と、近代化が嫌いな元同心・千羽兵四郎、元南町奉行駒井信興が知恵比べをする。その周囲には、幕末に活躍した人々や明治の異彩たちが走り抜ける。

山田風太郎は、織田信長が好きだというように合理的な人間が好きだ。その一方で、明治維新によって創り出された近代国家の崩壊期に青春時代を送っており、その近代に愛憎の念を抱いている。そのためか、明治国家の評価はあまり高くないようだが、合理主義的で建設的な人物を好む風太郎先生は、川路利良という警察官僚を例外的に好んでいて、たびたび活躍させている。しかし、一方で明治国家に反抗する人物を主人公にあてたいという意識があって、この両者の対決を本作で描いている。勝利はするが、その合理精神の遺産は食い潰される運命にあるものと、大きな流れに抗しようとするが敗れていくもの。巨大な権力と敗れゆく者の対比が、風太郎小説のモチーフだ。

本作でも、このモチーフは維持され、軽快なストーリーと贅沢な人物配置によるミステリーを楽しませてくれる。まだ前篇であるから、ラストにみせる加速度的な興奮は味わえないが、時折見せる風太郎先生の人物本位の歴史観が面白い。例えば、明治の草創期は、西国の勝ち慣れた人物の活躍が目立つのに、昭和になると歴史に一歩ずつ「遅れて来る」、歴史的に負け慣れている東北人脈が現れてくるというように。

個人的には、「幻燈煉瓦街」の幻想的で美しい情景の描写が、何ともいえない情感をあたえてくれた。

登場する主な歴史上の人物

川路利良、西郷隆盛、駒井信興、三遊亭円朝、岩倉具視、武市熊吉、島崎直方、斎藤一、今井信郎、青木弥太郎、夏目漱石、樋口一葉、桜井直成、東條英教、下岡蓮杖、種田政明、唐人お吉、榊原健吉、上田馬之助、島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、天田五郎、平間重助、沼崎吉五郎、細谷十太夫、永倉新八、幸田成延、幸田露伴、河竹黙阿弥、井上馨、田中儀右衛門、海後嵯磯之介、米内受制、板垣征徳、八代目山田浅右衛門、森鴎外など。

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2007年12月21日 (金)

山田風太郎『妖説忠臣蔵』集英社文庫、1991年

妖説太閤記』があまりにも面白く、『忍法忠臣蔵』も「忍法帖」シリーズ屈指の傑作であったため、風太郎先生が「忠臣蔵」を忍法以外で料理するとどれだけ面白いものができるのかと期待し探し求めていた本書をやっと発見し、喜び勇んで読んでみたが、少々ガッカリ。期待はずれだね。

とりわけ冒頭の「赤穂飛脚」は、指令を受けた無頼者が赤穂藩への早打ちを襲うというもので、主人公のお銀のように色気のある美女も登場するということで、「忍法帖」風味のある作品であるが、あまり面白くない。短編だけど長いというだけで、ストーリーにそれほど入っていけず、吉良が領内で名君とされているが「どうせ年貢をウンとまきあげる方便だろうが」と辛辣に指摘しているのが面白いくらいで、退屈してしまう。本書で面白かったのは、貝賀弥左衛門を主人公とした「俺も四十七士」と「蟲臣蔵」ぐらいか。解説を読んでみるとどうやら、本書の単行本は7篇で、この文庫は作者の自薦の5篇が収録されているということらしいが、落とされた2篇の方が面白そうだな。しかし、初出をみると「殺人蔵」が『オール読物』1955年12月号で「赤穂飛脚(原題「走る忠臣蔵」)」が『面白倶楽部』1957年5月号で、その他はその間にあるとのことなので、これらの作品が傑作『忍法忠臣蔵』(1962年)につながったと思えば、悪くない試作品だったのかな、とも思えてくる。

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2007年12月11日 (火)

山田風太郎『外道忍法帖』河出文庫、2005年

山田風太郎「忍法帖」シリーズの第6作目。初出は、『週刊新潮』1961年8月28日号~62年1月1日号。

天正少年使節団がローマ法王から下賜された百万エクーの金貨を中浦ジュリアンは、自分の死後313年に到来するキリスト教が国教となる国家に備えて隠した。その鍵は、15童貞女の秘所に隠された鈴に刻印された文字と、それを探すための十字架である。その十字架は、転び伴天連として公儀に仕えたクリストファ・フェレイラに託された。フェレイラから報告を受けた松平信綱は、主家再興の望みを抱く天草忍者15人を長崎に送るが、迎え撃つ15童貞女は大友忍法の使い手であり、また天下顚覆を目論む由比正雪も子飼いの甲賀忍者15人を送り込み、三つ巴の死闘が繰り広げられる。

これまで主要な「忍法帖」は読み終わり、講談社版の選にもれた本作にも手を出したのだが、うーん、これはどうなのでしょう。まぁ45人+αの忍者たちの忍法のバリエーションに凄さはあり、風太郎先生の挑戦には脱帽するものの、ストーリー自体はそれほど面白いわけではなく、登場人物が出てきたとたんに死んでいくという何とも味気ない小説になっている。踏み絵を考え出したという(ホントか?)フェレイラの存在を知ることができたのは、遠藤周作の『沈黙』を読んでいなかった私には儲けものでしたが。

登場する主な歴史上の人物

クリストファ・フェレイラ(沢野忠庵)、中浦ジュリアン、松平信綱、由比正雪など。

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2007年11月29日 (木)

山田風太郎『お庭番地球を回る』ちくま文庫、2005年

ちくま文庫のシリーズ「山田風太郎・忍法帖短篇全集」の第11巻。初出は、1970年~73年までの「忍法帖」後期の作品群とおまけで64年の「忍法金メダル作戦」が収録されている。

山田風太郎の忍法帖は、ナンセンス小説である。本書解説の川出正樹氏も書かれているが、私も最初に『甲賀忍法帖』を読んだ時、「これはナンセンス小説なんだな」と思いながら読んだ。意味なんてないから、奇妙な忍術や異形な忍者が現れるし、読者に感情移入させる間もなく、登場人物を殺してしまう。ただ面白ければいいのだ。

本書に収録されている作品は、それ以前の長編や初期短編にくらべて、本格的な「ナンセンス小説」だ。「怪異二挺根銃」なんてのは、ホントに凄い。バカバカしい。人間の外面に表れている器官、手足はもちろん目や鼻(穴)、耳、乳房はそれぞれ二つづつくっついている。口も肛門と一揃いだ。それなのになぜ陰茎は一つなのか。「二本あればなあ!」と考えついた忍者の子孫に本当に二本ついてしまったという話。これをマジメ(?)に考察し、「ここまで考察した者は世界にまたとあるまい」と胸を張る風太郎先生。本当にバカバカしい。本作の副題には「津軽忍法帖」とあり、しかも「相馬大作事件」という藤田東湖らの水戸学に影響を与えた歴史的事件を題材にしている分、本格的な長編もかのうだったろうにと思われるが、地の文に風太郎先生ご本人も現れるし、まさに自分の作品までパロディにしてしまう余裕と「忍法帖」への決別の意志が表れている記念碑的作品である。しかも法医学の知識は小説のネタにはならないとのべる初期エッセイ(「小説に書けない奇談」)の題材を使っているところも笑える。

表題作「お庭番地球を回る」は、遣米使節団の一員としてアメリカに渡る元お庭番、村垣淡路守範正の活躍を描く話。冒頭のエピグラフに『旧事諮問録』が掲げられていて、そういえば、こんな文章を読んだ記憶があるし、村垣も日本人の異文化体験の引用に使われているのを読んでいたが、この二つが重なり合うことは私にはなかった。村垣淡路守って忍者だったんだね。そんな意外性にも笑ってしまったが、史実の中の風太郎先生の遊びに声を立てて笑ってしまった。

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2007年11月22日 (木)

山田風太郎『明治断頭台』ちくま文庫、1997年

山田風太郎の「明治もの」第4作目。初出は、『オール読物』1978年5月号~79年1月号(78年9月号休載)。舞台は、明治2年~4年の弾正台。

山田風太郎自身が、自信をもって薦める「明治もの」の傑作。

幕末維新期に外遊し、佐賀の乱の敗北後、江藤新平の逃亡にともなって捕らえられて処刑された香月経五郎の兄という経四郎を主人公に、経四郎がフランス遊学中に知り合ったフランスの首斬り役人サンソンの子孫エスメラルダの力を借りて、役人の汚職を摘発する弾正台を舞台に謎の事件を解決する探偵小説。経四郎の親友で補佐役が、川路利良。

正直、本書を読んでいて思ったことは、「俺って、ミステリー、そんなに好きじゃねぇな」ということ。本書解説の日下三蔵氏によれば「山田風太郎は本質的にミステリ作家である」とのことだが、私は風太郎先生の「ミステリ的手法」でストーリーを展開させることは好きなのだが、本格ミステリーとなると架空の事件、聞き込み、一筋縄ではいかない関係者、名探偵による複雑なトリックと動機の解明という流れに、結構どうでもいいなぁと思ってしまう私がいるのである。

しかし、本書を最後まで読むと「ああぁ!!」と思わせる最後のトリック解決編に息をのみ、この手のトリックの結構古い作品なのかもしれないとうなってしまった。そして、最後まで読むと本作が、ミステリーと「明治もの」の雰囲気、「忍法帖」的テイストを兼ね備えた山田風太郎の代表作であることが分かる。素晴しい作品だ。

この「明治もの」の凄さは、やはりこんなところであの人物が出るの!?という人物配置のうまさで、しかもそれが不自然ではないところにある。下には記さなかったが、『ラスプーチンが来た』に登場する二葉亭四迷・長谷川辰之助も名前だけ現れるあたりもにくいところだし、福沢諭吉を結構「奸物」である面も指摘しているところが面白い。風太郎先生は、独自に年譜をつくっていたらしく、そのためにこそ、このような人物配置を可能にしているのである。あぁ、私も見習わなきゃなぁ。

登場する主な歴史上の人物

福沢諭吉、川路利良、ひっつれの丹治、山犬の金兵衛、玉つぶしのお綾、東郷平八郎、海江田信義、吉井友実、品川弥二郎、尾崎行正、河野敏鎌、安岡良亮、江藤新平、香月経五郎、河上彦斎、中井刀弥雄、奥村五百子、鯉淵彦五郎、小笠原長行、ヘボン、岸田吟香、高橋お伝、内村鑑三、沢村田之助、小林金平、夜嵐お絹、高村光雲、雲井龍雄、山田浅右衛門、広澤真臣、野村三千三(山城屋和助)、青木弥太郎、山県有朋、桐野利秋、逸見十郎太、西郷隆盛、小原重哉

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2007年11月20日 (火)

山田風太郎『八犬傳』廣済堂文庫、1998年

今を去ること十数年前の歴史小説にはまっていた高校生の時、私は本書を書店で手に取った。これが山田風太郎の本を手にした初めての出来事だった。しかし、本書(当時は朝日文庫)裏のあらすじを読んで、「何だ、単なる八犬伝の現代語訳じゃないのか」と「実の世界」を描いているという部分にひっかかってしまい、そのまま置いてしまった。当時の私は、小説は歴史の知識を得るか古典を教養として読むツールに過ぎないと考える無粋な人間だったので、余計な物語がついている伝奇小説には興味を示さなかった。しかし、それはまったく誤っていた。本書は、最後には私を号泣させるくらい美しい大傑作だった。

本書を、山田風太郎作品の第1位に選ぶファンも多くいるが、私も同意である。面白さや中毒性といったものでは、『神曲崩壊』や「忍法帖」、「明治もの」など他の作品の方が上かもしれないが、作品としての完成度や美しさは他の追随の許さない、恐るべき小説だ。

本書は、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の八房の活躍から犬江新兵衛の館山城攻略までの筋だけを追った現代語訳の「虚の世界」と、馬琴の伝記的な要素を持つ「実の世界」が交互に描かれる。その「実の世界」では、馬琴の相手として葛飾北斎や鶴屋南北、渡辺崋山が彼の前に現れ、芸術論を語り合う。そして痛快な「八犬伝」を描く馬琴の日常は、妻に罵られ、息子の行く末に苦悩し、偏執狂的に細かい馬琴の暗さが漂う、女中たちが一月で逃げ出す地獄のような家庭であった。

山田風太郎は、馬琴のように出不精で、「実の世界」とはまったく異なる「虚の世界」を描いた作家ではあったが、馬琴が「現実ではなされることのない勧善懲悪の世界」を描くことに生甲斐を感じているのとは異なり、北斎のように「かきたいからかく」とか、南北のように「荒唐無稽の中にリアリズムを描く」を志向している作家だ。本書に現れる文人たちは、作者本人の分身たちだ。そこで語られる芸術論は、まさに風太郎先生の作家としての意識が語られるようで、とにかく面白い。また、「八犬伝」後半の物語に破綻をきたしている点を老化のためと指摘するところなどは、70を越えて小説を書かなくなった作者の未来を暗示しているようにもみえる。

しかし、なんといっても終章「虚実冥合」だ。息子に先立たれ、目から光を失い、物語は破綻していく。そんな落魄していく馬琴に光を与えたのは、息子の嫁・お路だった。彼女は、「いろは」ていどの知識しかなく、馬琴の和漢の古典の博引傍証に溢れる「八犬伝」など分かるはずもないのに、口述筆記を自ら請け負う。そして、その苦闘のはてに馬琴とお路の間には「法悦の溶けあった世界」を生じさせ、「八犬伝」は完結する。この時、馬琴の地獄のような「実の世界」は、彼の描く怪異壮大な「虚の世界」のように神話的な荘厳さを彩り、「虚」と「実」は「冥合」した。そして、『八犬傳』という作品もまた見事に神話を描ききっていた。

この老人と未亡人との間に生じた神々しいまでのロマンテックな時間と空間、作者の二人への敬意にあふれるラストの描写は、何にも増して美しく、このような物語に十数年遅れて出会えたことを私は幸せに思う。

初出は、『朝日新聞』夕刊1982年8月20日~83年11月16日。

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2007年11月 3日 (土)

山田風太郎『神曲崩壊』廣済堂文庫、1998年

大傑作。これは面白すぎる。

「実にくだらない原因」から核戦争が勃発し、地球は消滅した。その時、人類でたった一人、ダンテの『神曲』を読んでいた作家の「私」は、ダンテ、ラ・ロシュフコー、ラスプーチンをお供に地球滅亡により崩壊して奇妙な世界へと変ってしまった地獄世界を棺桶の馬車に乗って、旅をする。ダンテの導きにより、日本人の「私」に馴染み深い人物たちの地獄での生活を目の当たりにする。

初出は『週刊朝日』1986年10月3日号~87年5月1日号であり、明らかに『問題小説』1978年9月号~1987年2月号まで連載された『人間臨終図鑑』(私は、まだ読み途中)の普及版として小説化した作品である。『人間臨終図鑑』は、920人にも及ぶ歴史上の人物たちの簡単なエピソードと最期の姿を延々と描いた作品だが、本作に現れる地獄の住人の姿は、その臨終のエピソードの再現として表されている。360頁ほどの分量に登場する人物の豊富なこと、そして山田風太郎の各人への評価を見ることができる贅沢な作品だ。

本作で登場する人物は、山田風太郎の小説やエッセイに馴染み深い者たちで、ある種、本作は山田風太郎の総集編ともいうべき内容を持っている。ここに登場する人物たちをあまり知らない方には、他の風太郎作品で「勉強」してから臨むことが求められる読者の知識が試される作品だが、歴史好きだが「忍法はちょっと。。」とか、「ミステリーに興味なし」とかの方々には、まず最初にお薦めしたい大名著だ。

ちなみに本作は、登場人物の数々の大愚行を描き、各人をおおっている「神話」を次々に剥がしていくのだが、例外的に小栗虫太郎は「敗戦直後、メチール・アルコールが殺した、最も惜しい日本の天才の一人だった」と好意的に評価されている。これを読んで、私は、「風太郎先生も『黒死館殺人事件』はよく分からなかったんだなぁ」と思ってしまった。というのも、風太郎先生がもっとも尊敬する夏目漱石はかなりユーモラスな描き方なのに、小栗だけ「天才」というのは、腑に落ちない。やはり、他の人物もそうだが、ある程度世間の評価もあり、風太郎先生も理解できた人物は、そのような評価を前提として辛辣に描けるのだが、小栗のように有名ではあるが作品の評価となると一部の人が最大の賛辞を与えるわりには、読んでもよく分からない人を辛辣に描くにはどうもやり難いと感じたのではないだろうか。かくいう私も10年近く前に澁澤龍彦(彦は旧字)が『偏愛的作家論』で大絶賛していたのをみて『黒死館殺人事件』を読んでみたが、さっぱりその良さが分からず、今では犯人が誰かぐらいしか覚えていないくらいになってしまった。ただまぁ、日本三大奇書にも選ばれているし、そのぺダンティックな叙述に小栗は「天才」なのかなぁ、と思ってしまっているだけである。だから、風太郎先生がこういうふうに描いたのも分かる気がする。もっとも、他のところで評価している文があれば、撤回しますけどね、この邪推。

登場する歴史上の人物

ダンテ・アリギエーリ、ラ・ロシュフコー、ラスプーチン

飢餓の地獄

正岡子規、高浜虚子、夏目漱石、芥川龍之介、石川啄木、金田一京介、永井荷風、尾崎放哉、辻潤、乃木希典、乃木静子、河上肇、山口良忠、難波作之助、コルベ、マハトマ・ガンジー、沢庵、俊寛

飽食の地獄

小島政二郎、壇一雄、吉田健一、山本嘉次郎、獅子文六、子母沢寛、久保田万太郎、梅原龍三郎、谷崎潤一郎、松山善三、高峰秀子、林芙美子、近藤日出造、大宅壮一、徳川家康、佐藤栄作、山岡屋荘八、北大路魯山人

酩酊の地獄

小栗虫太郎、若山牧水、稲垣足穂、種田山頭火、梶山季之、江利チエミ、高倉健、田中角栄、黒田清隆、田沼意次、田沼意知、平賀源内、岩崎弥太郎、山岡鉄舟、エドガー・アラン・ポー、ポール・ヴェルレーヌ、ロートレック、ゴッホ、ユトリロ、カント、横山大観、井伏鱒二、李白、古今亭志ん生

愛欲の地獄

源義経、静御前、藤原道長、玄宗、楊貴妃、清少納言、長谷川一夫、レセップス、ヴィクトル・ユゴー、クレオパトラ、マリリン・モンロー、小林一茶、松永安左エ門、広沢虎造、柳家金語楼、菊田一夫、川口松太郎、川上宗薫、木村荘平、徳川慶喜、徳川斉昭、徳川家斉、豊臣秀吉、始皇帝、伊藤博文、有島武郎、波多野秋子、藤原義江、近松門左衛門、嵐寛寿郎、竹久夢二、東郷青児、ジアローモ・カサノヴァ、太宰治、村岡伊平次、小平義雄、大久保清、阿部定

嫉妬の地獄

岡倉天心、九鬼波津子、岡倉基子、荒畑寒村、幸徳秋水、菅野須賀子、北原白秋、松下俊子、北原幸子、神近市子、伊藤野枝、大杉栄、松井須磨子

憤激の地獄

三田村鳶魚、石川達三、徳田球一、磯部浅一、東郷茂徳、宇垣廛、井上成美、桐生悠々、黒沢明、勝新太郎、溝口健二、浅野長矩、吉良義央、田中絹代、井伊直弼、藤田東湖、大塩平八郎、田中正造、織田信長、明智光秀

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2007年10月27日 (土)

今週の読書

今週は少々時間がなくて、一冊一冊を書くことはできず、まとめて書いておく。そもそもこれって備忘録のつもりで書いているわけだし。

山田風太郎『あと千回の晩飯』朝日文庫、2000年(単行本1997年)

山田風太郎の晩年のエッセイ集。70を越え、身体に様々な不調を訴えるようになり、「晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろう」という朝日新聞に連載された表題作や、月刊誌や産経新聞に掲載されたエッセイを収録。長生きなどするものではないといいつつ、糖尿病を患って入院したりなど、老齢の恐ろしさを感じさせ、また、若き日のエッセイには面白いものもあるのだが、小説を書かず、本も読めなくなった山田風太郎が大して面白くもないエッセイを書き綴っている様が、また怖い。しかし、『人間臨終図鑑』を書いた作者の漱石や正岡子規の小ネタなどは面白く、またたまに飛び出す警句や『青春探偵団』の下ネタは自分の中学時代の思い出であったことが確認できたし、昭和美人番付の1位が美智子皇后というのもおかしみがある。「太平洋戦争」の再評価がなされない現状や靖国に政治家が尻込みしていることを「意外」としたり、移民容認を将来の禍根としたりするなど、後は死ぬだけで何を言ってもいいという虚飾を脱いだ「戦中派」老人の生の言葉にふれる事ができるのは興味深い。

山田風太郎『かげろう忍法帖』講談社文庫、1999年

1960年代の忍法帖短編集。「忍者本多佐渡守」が秀逸。一度は裏切りつつも、後に家康最大の謀臣となった本多正信という謎の人物を次代の謀臣土井利勝の目線で描き、そのはかりごとのテクニックを身をもって伝授する様が見事。他の短編も予想のつかない展開で山田風太郎の短編作家としての力量を十二分に堪能できた。

山田風太郎『野ざらし忍法帖』講談社文庫、1999年

『かげろう~』同様に1960年代の忍法帖の短編集。冒頭の「忍者服部半蔵」は、忍法帖シリーズで主人公たちにしてやられる服部正広が、服部半蔵を襲名する出来事を『忍法八犬伝』や「忍者本多佐渡守」でおなじみの「大久保長安事件」をモチーフに、地位によって人は変わるということを描いている。しかし、この地位というのも忍法の許された世界では、家康への忠義と「服部半蔵」という名の組み合わせに初代が忍法をかけたともいえるつくりとなっている。『かげろう~』収録の「「今昔物語集」の忍者」と同様、本書にも「甲子夜話」の忍者」というエッセイが収録されており、どちらも紹介された古典を読みたくなるような秀逸なエッセイ。こういうネタにされているものを読者に興味を持たせるものをいいエッセイというんだろうなぁ。

竹田青嗣・西研編『はじめての哲学史』有斐閣アルマ、1998年

私のようなド素人が、不分明な業界に手を出すには、まずはこのシリーズを手始めにした方がいいということで、積読してあった本書を掘り出して読んでみた。助かりました。大体、フッサールぐらいまでは輪郭がつかめた。しかし、例によってハイデガーでつまずき、現代哲学はページ数に比べ、あつかう人物が多すぎるために理解が滞ってしまった。そして、分かったのは哲学を学ぶにはいきなり原典ではなく、哲学史を学んで過去の課題がその哲学者にどのような影響を与え、それを当面の課題に則し、どう乗り越えようとしたか、を理解しなければならない、という点。やはり哲学史は重要で、過去を順に追ってかなければ、哲学者を了解することはできない。当面、私の研究に必要そうなのはヘーゲルとニーチェのようだ。これを読むのも骨が折れそう。。また本書の軸となる哲学者は、ヘーゲルとニーチェとフッサールのようで、それ以後の哲学に関しては厳しい評価のようだ。編者の名を見ても分かる気もするが。

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2007年10月19日 (金)

山田風太郎『忍法八犬伝』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズの第12作目。初出は、『週刊アサヒ芸能』に1964年5月3日号~11月29日号まで連載。

「里見八犬伝」の物語から150年後、里見家に代々伝わる「仁義礼智忠信孝悌」の八顆の宝珠が、「狂戯乱盗惑淫弄悦」の珠にすり替えられた。これは、宝珠を徳川家嫡孫家光に献上する約束であった里見家を取り潰そうとする本多正信と服部半蔵の陰謀であった。そこで甲賀に修行に出ていた八犬士の子孫に奪還を要請するが、彼らはすでに忍者修行を放り出し、江戸近辺で乞食や女郎屋者、盗賊、軍学者などとなり、里見家への忠義など眼中にない自由な生活を送っていた。しかし、彼らが恋心を抱いていた里見忠義の正室・村雨の登場により、忠義ではなく奥方に「いいところを見せたい」との一心で伊賀女忍者8人から宝珠の奪還を企てる。

ストーリー展開としては、自由を謳歌しつつも一人の姫の登場で命を散らす第9作『風来忍法帖』と同様で、忠義に興味がないという点で第7作『忍法忠臣蔵』の主人公を思い出させる。この忠義ではなく、一人の「姫」のために闘うという構造は何なのだろうか。ここに私は『妖説太閤記』同様に林房雄『大東亜戦争肯定論』の影を見てしまうのはうがちすぎだろうか。

本作の主人公たち一族は、八犬士の名をそのまま引き継ぎ、また父親たちは宝珠の銘そのままに道徳の鬼たちだ。それに若い彼らは反発し、甲賀修行を安房から抜け出す口実として利用している。そのような彼らだから里見家という家=国家に忠義立てするような意識はまるでない。しかし、大久保家から嫁いできた村雨という「姫」のためなら死を厭わないという意識をもち続けている。つまり、忠義のような抽象的な観念のために彼らは死なず、「姫」という具体的な人格への「恋」のために殉じているのである。これは、「戦中派天才老人」山田風太郎として、「大東亜戦争」に散っていった同世代の若者たちの心象を描いたものといえないだろうか。

八犬士の父親たちは、忠義に凝り固まった堅苦しい人物であり、自らを里見家という国家との一体感を当然のようにもち、宝珠を奪われた際の追撃戦では獅子奮迅の働きをしながらも、お家に迷惑をかけたとして悄然として腹を切る。彼らは、里見家と自らを一心同体と見て、それに喜びすら感じている。これは夏目漱石『それから』の主人公の父親のように明治国家に一体感を持つ明治人の心象である。しかし、『それから』の主人公の同世代の者たちは、明治天皇に殉死した乃木希典を嘲笑し「恥」とみる意識に変化していた。そして大正期には、国家を人民から外部化して権力機構とみる考え方が一般的となり、国家を自らと一体化してみる意識は希薄になっていった。そして、国家主義の再台頭を招いた昭和期に入ってもこうした大正期の精神はエリート層にはまだ残っていた。山田風太郎は、東京医科大学出身のエリート層に属し、彼自身やその友人らにも国家への愛着はあるものの、それがために死ぬことに違和感を感じた者も少なくなかったはずだ。さらに戦後になると彼らの死は、狂熱的な国家への忠誠という抽象的なものに浮かされた犬死と解されることもあり、山田風太郎はそれにも違和感を感じたのではないだろうか。

人は何のためになら死ねるか。「忍法帖」の登場人物たちは、次々と死んでいくが、その死を選ぶ動機として、最初に権力者たちの命令があるものの、最終的には彼ら個人の誇りのため、「女」のために死ぬという設定がなされる。そのために彼の小説には、忠義のような抽象的な観念のためにではなく、魅力的な「女」や「男」が配されている。これは、山田風太郎の友人たちや同世代の若者たちの死が、国家の命令という権力に強いられた状況の中で、「悪」の国家ではなく、具体的な「誰か」のために命を燃やしたのだとする、「戦中派」の主張なのではないだろうか。ましてや命令した国家が「悪」とされる中で、彼らが国家のために死んだのでは、まさに犬死だ。それを本作の八「犬」士たちの「死」を「恋」のために死んだとすることで、同胞の死を犬死にさせないという意志が見られるように思える。

しかし、本作のヒロイン村雨は、単に彼らの「恋人」でないことも暗示している。それは、この村雨という人物は、八犬士たちの死を同情しつつも彼らが里見家への忠義のために死ぬことを当然と考える無垢ではあるが冷酷な一面を持っている人物として描かれている。村雨は、あくまで無垢であり、そこに何らの悪意はない。しかし、結果としてみればお家大事という大義のために家臣が死ぬことは当然と考える冷酷さがある。これは、実像ではなく、一般庶民が感じていた昭和天皇像と類似してくる。つまり、村雨というキャラクターは、「大東亜戦争」に散華した兵士たちの個々の「恋人」像でもあり、一方で天皇像をも重ねあわされた人物でもあるように思える。

ところで、本作では無事に八顆の宝珠は、無事に村雨のもとに戻り、里見家の安泰は約束されたようにもみえるが、実際は失脚した大久保忠隣の正室を迎えた安房里見家は改易され、伯耆国倉吉藩に移され、忠義の死により、里見家は滅亡する。その時に主君に殉じた八人の家臣を「八賢士」と呼び、曲亭馬琴『里見八犬伝』のモデルになったといわれる。本作の結果的に「お家にために」死んでいった八犬士のモデルもそこに求められるだろう。

登場する主な登場人物

本多正信、服部正広、里見忠義、正木頼忠、印東房一(印藤采女として)、小幡景憲、織田長益、庄司甚右衛門、大久保忠教など。

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山田風太郎『くノ一忍法帖』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズの第4作目。初出は、『講談倶楽部』に1960年9月号~61年5月号まで連載。

大阪夏の陣による大坂城落城後に救出された千姫の侍女の中に、真田幸村は配下信濃女忍者を潜ませ、しかも彼女たちに豊臣秀頼の胤を身籠らせていた。それを知った徳川家康は、服部半蔵下の伊賀忍者に千姫に知られることなく彼女たちの暗殺をするように命じた。しかし、豊臣家への愛敬の念を持つ千姫は、祖父家康に挑戦状を叩きつけ、伊賀忍者とくノ一5人の死闘が始まる。

本作は、後にVシネマとして映像化され、風太郎といえば忍法帖、忍法帖といえば『くノ一忍法帖』というイメージを忍法帖ブーム後の一般の人々に植えつけた作品である。

で、作品はといえば、それほど面白いものではない、という印象が残ってしまった。それは、どうした理由であろうかと、考えてみたが、私のように無粋な大衆小説読者としては、やはりどちらかに肩入れして、感情移入しつつ読まなければ、物語の世界には入っていけない。そこで巧みな技巧を凝らした忍法やストーリー展開があっても、中に入っていけなければ、「ふんふん、へー」ぐらいなものである。本作の主人公たる千姫は、それほど魅力的ではないし、くノ一たちも豊臣家や千姫への忠義のために敵以外の者にどれほど犠牲が出ようとかまったものではない。暗殺グループの伊賀忍者たちも敵役だけあって、こちらの気持ちを入れていくわけにはいかない。そして、豊臣にも徳川にもそれほど、入れ込んでいない私には、どっちが勝とうが知ったことではない、という風に読めてしまうのだ。まったく小説の楽しみ方を知らないダメな読者の典型のような読み方ではあるが、そんな作品に読めてしまった。一方で、これもやはり忍法帖をこれまで読み続けてしまって少々この世界に慣れてしまって、これぐらいの作品じゃ物足らなくなった、ということの表れかもしれないが。

また、本作には千姫の助っ人として徳川頼宣が登場するが、ここで現れる颯爽とした若武者がまさか『魔界転生』において、魔に魅入られる暗君になろうとは思わなかったであろうが、本書のラストでそれにつづくであろうオチをつけているあたり、風太郎先生の力量はさすが、といえる。

本作に登場する服部半蔵は、『甲賀忍法帖』、『忍法八犬伝』と同様に正成の第三子正広である。この正広は、長兄正就と次兄正重の失脚後、後を継いだとされるが、実際にこの時には伊賀同心の頭領ではなくなって、僧になったといわれている人物である。だから、頭領と伊賀忍者ともどもどうも頼りなさが目立ち、伊賀忍者時代の終焉を感じさせる一抹の寂しさを彼から感じてしまう。

登場する主な歴史上の人物

徳川家康、服部正広、真田信繁、千姫、坂崎直盛、徳川秀忠、春日局、徳川頼宣、庄司甚右衛門、安藤直次など。

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2007年10月12日 (金)

山田風太郎『妖説太閤記』講談社文庫、2003年

山田風太郎の唯一とも言える戦国時代を真正面からとらえた「歴史小説」。初出は、『週刊大衆』にて1965年10月2日号~66年12月29日号まで連載。

蜂須賀小六率いる乱波集団・蜂須賀党に属する「猿」と呼ばれた少年は、その容貌の醜さから女にもてず、「戦利品」である女にすら拒絶されつづけ、安女郎や他の仲間たちに使い古された女しか抱くことができない。その後、蜂須賀党から離れた「猿」は、彼らに狙われた姫君に一目惚れして一行を助ける。その姫君こそが、織田信長の妹・市姫だった。その市姫の近くにいたい、自分のものにしたいと考えた「猿」は織田家に仕える。「藤吉郎」と名乗るようになった「猿」は、出世して市姫に近づくため、邪魔者を次々と陰謀によって葬り去っていく。それは、主君・織田信長も例外ではなかった。

山田風太郎の時代小説は、虚実入り乱れ、「実」を丹念に検討した上で、奇想天外な「虚」の世界を形作っていく。本作は、通例とは異なり、「実」をメインに据えた作品である。しかし、ただ「実」を延々と述べていくのではなく、ミステリー的手法を用いて、秀吉の陰謀の密談に多くのページを割いている。「忍法帖」では、最初に実在の権力者たちの陰謀が語られ、それを実現するために忍者が使われ、その忍者たちの死闘がメインに据えられている。本作では、その忍者の部分をカットして陰謀の部分が語られているのである。つまり、『甲賀忍法帖』では後継者争いに忍者を使うことを進言する天海と家康の密談、『伊賀忍法帖』では松永久秀の野心を遂げるために根来忍僧を使うことをそそのかす果心居士と松永の密談、というような部分が次々に述べられていると考えていい。本作で忍者の役割を果たすのは蜂須賀党であるが、彼らの活動はほとんど見えてこない。蜂須賀小六は、秀吉の出世に絶大な役割を果たしているが、その活躍は具体的な記述として表れてこないのだ。これが、「忍法帖」を異史とすれば、本作は正史と位置づけられるところを作者自身が意識的に書き分けていることが表れているところだろう。

本作は、類希な知能と行動力を持った「もてない男」が、権力を握ろうと画策し、独裁者になった場合、どうなるかを描いた小説だ。その文体は、淡々としてしかも暗い。主人公・秀吉も、読者にしてみれば「早く死んでくれ」と思わせるような醜悪で危険な人物として形づくられている。甥の秀次とその妻妾への残酷ともいえる仕打ちは、「もてない男」の「もてる男」と「もてる男」に惚れる女への復讐だという解釈は虚をつかれた感がある。この「もてない男」秀吉が、自分より上位のしかも少女を好む性癖を持つという解釈は、なるほどと思わせ、この現象は現在にも見られるようだから、山風の人間観の秀逸なところだろう。

この秀吉解釈は、大変説得力を持ち、単純な私などもはやこうした目でしか秀吉をみられないほどだが、本作の見所の一つとして山田風太郎の歴史観のようなものを見ることができるところにある。例えば信長の死について、「とりかえしのつかない不幸であった」と述べ

「彼は恐るべき人物であった。しかしそういう人間でなければできないことを彼はしてのけた。「若しも」という仮定は、歴史を見る上で無意味であるが、国家制度の近代化という点はもとより、のちに秀吉が失敗した大陸進出も、若しも信長が生存していて彼の手で行われていたら、或いは或る程度成功していたかもしれない可能性がある。当時の宣教師でさえも舌を巻いた彼の世界の大勢に於ける適確な知識、南蛮渡来の兵器に対する旺盛な吸収力、その天性の非常なばかりの合理性などによってである。/大陸や南方への進出を侵略というだけの見地からみる現在ただいまの風潮からすれば論外の見方ではあるが、しかし現代ヨーロッパの驚くべき豊饒な文明の基礎をなしたものは、彼らのアジアからの富の奪取にあることは歴史的な事実だから、この十六世紀の時点に於て信長を失ったということは、それ以後の日本にとって、事実上想像できないほどの損害を与えたと作者には思われる」(上巻424頁)

とする。私などは信長の恐ろしさに縮こまって光秀の謀反を肯定的に見ている方だが、やはり風太郎先生は第二次大戦下の不合理がまかり通った日本を体験しており、その不幸を目の当たりにしているがために、信長への好意が表れてくるのではないかな、と思える。信長ファンに戦中派が多いのは、そのあたりにあるのではないだろうか。

この戦中派としての意識が色濃く出ているのは、小牧・長久手の戦いは徳川家康が自分を高く売るための戦いであって、勝つつもりのないものだったというところで、

「太平洋戦争全体をひとなぐりと見れば、あのむちゃくちゃぶりが、戦後の日本をどれほど高く世界に売りつけることになったかわからない。無軍備と称してそれが必ずしも近隣諸国にあなどられず、またアメリカがのどから手が出るほど日本軍の助力を望みつつ、あえてそれを強制しないのは、いずれも軍国日本の再現をさらに厄介なものと見ているからである。アジアと太平洋であばれ死にした数百万の日本兵は決して犬死ではなかった。―とはいえ、それはなんという大犠牲であったか」(下巻111頁)

と、述べるあたり、徴兵検査で体格不適格とされ、戦わずに戦後の平和を享受しえた風太郎の、戦場に散った同世代の者たちへの負い目を語ったものだろう。しかし、これほどの慰霊の言葉もないないだろう。

本作には、ところどころに「戦中派天才老人」山田風太郎の戦中の日本への嫌悪感と愛惜が述べられているように思える。そこにこの小説全体に暗さや悲しさが通低しているように思えてならない。本作になにかと第二次大戦下の日本についての言及がなされているのは、『中央公論』1963年9月号~65年6月号に林房雄が「大東亜戦争肯定論」が連載され、この時期「あの戦争」の問題が論壇でかまびすしく論じられたことの余波であり、風太郎先生なりに何かいわなければならないということの表れではないだろうか。

登場する主な歴史上の人物

豊臣秀吉、蜂須賀正勝、明智光秀、石川五右衛門、織田信長、北の政所、お市の方、前田利家、安国寺恵瓊、柴田勝家、丹羽長秀、徳川家康、浅井長政、竹中重治、織田信包、織田長益、織田信忠、織田信雄、織田信孝、足利義昭、蒲生氏郷、石川数正、酒井忠次、稲葉良通、京極竜子、森成利、森長隆、小早川秀秋、大野佐渡守、大蔵卿の局、お種の方、滝川一益、佐々成政、黒田孝高、石田三成、小西行長、波多野秀治、斎藤利三、直江兼続、明智秀満、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景、羽柴秀勝、佐久間盛政、加賀殿、淀殿、前田利益、服部正成、池田恒興、豊臣秀次、三の丸殿、姫路殿、長束正家、朝日姫、千利休、豊臣秀長、大谷吉継、片桐且元、豊臣鶴松、伊達政宗、大野治長、加藤清正、福島正則、前田玄以など他多数。

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2007年10月11日 (木)

山田風太郎『風来忍法帖』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズの第9作目。初出は、『週刊大衆』の1963年3月16日号~12月26日号まで連載。

豊臣秀吉による北条攻めの時代、戦場を渡り歩いて商売をする香具師7人は、城落ちした北条方の女を誘拐してコマ売りしていた。それを3人の風摩忍者忍者に守られた麻也姫にとがめられ、香具師のリーダー格悪源太助平は顔を踏みつけられた。これに怒った悪源太は、姫を「ヨツにカマる」=強姦して復讐を遂げるために姫をつけねらう。しかし、その目的のために姫に近づきつつも、石田三成率いる二万の軍勢を相手に数百の手勢で忍城を守る姫に魅かれていき、共に戦うことになる。

冒頭から凄い。何しろ、主人公たちが城落ちした姫君たちを拉致・強姦して売り払うところから始まる。風太郎作品では、悪人フラッグとして「女を犯して殺す」というのがあるが、本書の主人公は犯しはするものの殺しはしない。それどころか、悪源太は犯した女が何故か悪源太のいいなりになってしまう能力を持っているため、過程は悲惨だが結果は主観的に幸福感を味わってしまうのだ。どうやら、風太郎作品では、「犯す」だけとか、「殺す」だけではそれほどの悪人ではなく、両者が同時に行われることで読者に憎悪の対象になるという決まり事があるらしい。

それはともかく、こんな主人公たちになかなか感情移入できるはずがない。前半の400頁ぐらいまでは、彼らの悪行三昧がハイテンションな文体で描かれていき、少々読むのがつらい。しかし、そんな主人公たちが、当初は麻也姫を犯すために命を守るのだが、徐々に自らの命を棄ててまで守り抜こうとしていく「忍法帖」特有のストーリー展開になってくると極めて魅力的に感じ、最後には読む者に涙まで浮かばせるような美しさを感じさせ散華していくのだから本作の恐ろしい。これは嫌悪すら覚えさせる主人公たちを読者が同情から美しさまで感じさせる小説という風太郎先生の計算かもしれないが、私はまんまと引っ掛ってしまった。400頁以降の怒涛のような展開は、秀逸であり、感動的だ。

それを可能にするのが、麻也姫という存在である。この姫は、東国一の美女と謳われ、後に太閤秀吉の側室になる甲斐姫をモデルとしていると思われる。本作でも秀吉は、麻也姫の美貌を伝え聞き、何とか自分に侍らすために画策しており、これが香具師たちを奮い立たせる原動力となっている。実在の甲斐姫は忍城城主・成田氏長の娘となっているが、本作では氏長に輿入れしたての「姫(初夜を待たずに氏長は小田原入りする)」であり、太田道灌の子孫・太田資正の孫である。そして、実際の氏長の妻が資正の娘である。この甲斐姫は、本作の麻也姫同様に豊臣方から忍城を守り抜き、また実際に刀を振るって、敵将を幾人も討ち取るほどの猛女であったらしい。つまり、麻也姫は実在の事件、人物をモデルとした架空の人物であるが、風太郎作品屈指の女性像を誇っている。

ちなみに甲斐姫は、豊臣家滅亡後、千姫の助命により、東慶寺に入って尼になった。東慶寺は、次回作『柳生忍法帖』の舞台である。麻也姫の忍開城後の行方は描かれておらず、『柳生~』にも登場しないが、山風日本史において、両者はこのような史実とのつながりを持っているのである。

登場する主な歴史上の人物

蜂須賀家政、松田康長、風魔小太郎、太田資正、太田氏房(源五郎資房として)、成田氏長、石田三成、徳川家康、豊臣秀吉、松田憲秀、服部正成、伊達政宗、島清興など。

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2007年10月 9日 (火)

山田風太郎『江戸忍法帖』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズの第2作目。初出は、実業之日本社の雑誌『週刊漫画サンデー』に1959年8月25日創刊号~60年2月22日号まで連載。

4代将軍・徳川家綱の御落胤・葵悠太郎は、神田馬喰町の長屋に住む素浪人であるが、一刀流の達人で悠太郎の師匠・織部玄左衛門らは彼を世に出すために腐心するが、本人にはその気がない。幕閣で権勢を振るう側用人・柳沢吉保は、自身の妾・おさめの方が5代将軍・徳川綱吉の子を生んだことから、その子を次期将軍の座に就けようと画策していたが、悠太郎の存在を知り、甲賀忍者を使って暗殺を試みる。甲賀忍者の魔の手によって織部を始め3人の悠太郎の家臣を屠られるが、争いを好まない悠太郎は逃亡を企てる。しかし、長屋の隣に住む少年が甲賀忍者の魔の手にかかると、悠太郎は復讐のために甲賀七忍と死闘を繰り広げる。

本作は、柳沢吉保の嫡男・吉里が徳川綱吉の御落胤との異説を題材にして、貴種を主人公にとり、舞台を江戸、名悪役・柳沢吉保を敵役とし、主人公に恋する町娘や水戸黄門まで登場するという時代小説の王道を進むような内容となっている。「忍法帖」としてのつくりとしては、『伊賀忍法帖』同様に一人対多数のオーソドックスなつくりとなっているが、主人公が剣客である点や般若面の登場など、柳生十兵衛シリーズの先駆け的なエッセンスも含まれている。

また、本作の特徴としては、風太郎先生自身も認めるように「少年小説」のようで「あまりエロもない」と、「忍法帖」といえば「エロ」というイメージが抱かれる中で、比較的普通の作品である。話としても普通なので「忍法帖」熟練者には物足らないものとなっているが、あまり人に勧めにくい「忍法帖」シリーズの中では『甲賀忍法帖』同様に中学生にも推薦できる作品ではある。

登場する主な歴史上の人物

柳沢吉保、飯塚染子(おさめの方)、徳川光圀、佐々宗淳(助三郎として)、安積覚(格之進として)など。

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山田風太郎『魔界転生』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズ第15作目で、柳生十兵衛3部作の第2作目。初出は、「おぼろ忍法帖」のタイトルで、大阪新聞、名古屋タイムス、高知新聞、熊本日日新聞などの新聞に、1964年12月18日~66年2月24日まで連載。

もはやいわずと知れた大作で、山田風太郎といえば本作といってよいほどの大傑作である。というより、これって「忍法帖」だったんだな。忍者は、根来忍者が出てくる程度で、今回の主人公は柳生十兵衛だし、敵は島原の乱の軍師・森宗意軒があやつる忍法と西洋魔術を融合した「魔界転生」によって復活した剣豪集団なのである。

島原の乱で破れた森宗意軒は、心をこの世に残しつつ死の際に立った男が愛する女と交わると、一ヵ月後にその女胎を裂いて男が再誕する「魔界転生」をつかって、天草四郎、荒木又右衛門、田宮坊太郎、宮本武蔵、柳生宗矩、宝蔵院胤舜、柳生利厳を復活させて、徳川将軍に野心を持つ紀州藩主・徳川頼宣をそそのかして天下に大乱を導こうとする。紀州家に仕える木村助九郎、田宮平兵衛、関口柔心は、この異変に気づいたが、彼らに殺されてしまい、彼らの娘をかくまった柳生十兵衛は復讐の手助けをするために魔剣士たちと死闘を繰り広げる。

本作は、ある意味「ずるい」作品である。これほど、時代小説のスターたちを一堂に会して闘わせるという夢のような作品を「魔界転生」という復活の呪文によって成立させてしまうのだから、「ずるい」としか言いようがない。近年では、死者を復活させる類似作品も多いし、戦国物のゲーム等で彼らを闘わせることも可能ではあるが、この時代にこれをやってしまったことは、同時代の時代小説作家たちには「やられた」という感があったのではなかろうか。私は剣豪物をそれほど読んではいないので、この悪役たちの凄さは分からないが、吉川英治の『宮本武蔵』や隆慶一郎の『吉原御免状』、『かくれさと苦界行』ぐらいは読んでいたので、田宮坊太郎以外はだいたいは知っていた。その程度の私ですら、このオールスターキャストに感動したのだから、時代小説ファンにはたまらない作品なのだろう。一方で、あまり彼らに思い入れがないおかげで、彼らの悪行三昧を特に不愉快に感じなかったのかもしれないが。。

ただ、圧倒的な面白さという点では、もはや何もいうことのない作品なのではあるが、小説としての内容としては、森が何故そこまでして徳川政権と闘おうとするのか、という動機が「ただ徳川が混乱すればいい」ぐらいしか述べられておらず、動機として弱いようにも思えてしまう。また、本作も『柳生忍法帖』同様に味方のヒロインたちは当初は十兵衛に匹敵する剣客だとか、そんな紹介もあったものの別に何の活躍もせずによい待遇を受けるだけに終っている。やはり十兵衛が出てくると他のキャラクターがかすんでしまうという欠点はある。

本作は、1638年の島原の乱終結から10年以内に死亡した剣豪たちを再生するというテーマの下、牧野長虎が紀州藩の政府転覆の陰謀を松平信綱に訴え出ようとして斬られるという一事件を下地に描かれている。この牧野の事件も本当の話かどうかは私には判断できないが、そんな小さな事件を元にこのような大作を生むという風太郎先生に圧倒される。私は「忍法帖」の面白さと言う点では、『甲賀忍法帖』を最高傑作に挙げたいが、風太郎作品のエンターテイメントを遺憾なく発揮された作品は本作であると思う。小説の出来としては、他の作品を挙げたいが、面白さでいったら、本作は他と比類できないものだろう。

余談だが、本作は深作欣二や平山秀幸氏等が映画化しており、私は両方とも未見だが、敵役が天草四郎であることは知っていた。そのため、原作も天草四郎が、ラスボスであろうと思っていたが、違うんだなぁ。だまされました。でも、本作での四郎の存在感は他を圧倒しており、深作が四郎の剣豪でないのにエントリーされている点と知名度、悲劇性に注目して主役にしたのもなるほどと思わせる。また、現在、『柳生忍法帖』を原作とした『Y十M』を連載しているせがわまさき氏は、おそらく次は『魔界転生』をやるのではなかろうか。そうなれば、これまで忠実に二次作品化されていない本作も、ついに完全なかたちで漫画化されるのではないかと期待できる。

登場する主な歴史上の人物

柳生三厳、森宗意軒、益田時貞、宮本玄信、由井正雪、荒木保知、柳生利厳、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、柳生宗矩、徳川頼宣、牧野長虎、木村矩泰、田宮長勝、関口氏心、関口氏暁、松平信綱など。

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2007年10月 6日 (土)

山田風太郎『柳生忍法帖』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズ第10作目。初出は、『尼寺五十万石』のタイトルで、地方新聞に1962年5月29日~63年11月10日まで連載。

会津藩藩主・加藤明成は、悪政と淫虐の限りを尽す暴君であり、先代・嘉明からの重臣・堀主水は明成を諫めた上に、一族そろって藩を退転するが、幕府の許可を得た明成の親衛隊・会津七本槍に捕らえられてしまう。その上、七本槍らは、男子禁制のおんな寺・鎌倉東慶寺に押し入り、堀の一族の女たちを斬殺する。そこに将軍家光の姉の千姫の登場でかろうじて難を逃れた七人は復讐を誓って、沢庵の推挙で指南役に選ばれた柳生十兵衛三厳の下で体術・軍学の指導を受ける。

導入は、こんな感じで後は通常の忍法帖同様に彼らとの熾烈を極めた死闘が繰り広げられるわけだが、他との違いは十兵衛はあくまで女たちの監督役であり、直接七本槍に手は下さず、女たちの手で倒すという制約があることで、七本槍自身も忍者ではなく剣客である。このパターンは『忍法忠臣蔵』と似ているが、女たちは別に色仕掛けをするわけではなく、あくまで奇策をもって彼らを屠り、何度も危機に陥るものの凌辱されることもなく、死ぬこともない、風太郎先生にしては結構優しい待遇である。

で、この弱い者が強い者を倒すという設定には多少無理があったようで、結局は十兵衛の活躍がメインとなって女たちのキャラが非常に弱く、個性もあまり立っていない。本作を原作として『バジリスク』に継いでほぼ忠実な漫画化したせがわまさき『Y十M』では、何とか活躍させようとはしているが、せがわ氏の美女は髪型以外みな同じ顔をしているので、やはりキャラ立ちが難しくなっており、原作も漫画もどちらかというと例の悪人フラッグ「女を犯して殺す」を繰り返す悪逆無道な七本槍の面々の個性が勝ち、また十兵衛に翻弄される彼らが少々哀れでかわいらしくも見えてしまっているのが、また皮肉である。だから本書は、とにかく柳生十兵衛がカッコいい!という小説なのだ。

余談だが、十兵衛といって思い出されるのは、私は小学生の卒業文集に「なりたい歴史上の人物」というアンケートに何故か「柳生十兵衛」と答えていた。私は、当時から歴史好きだったので、小学生らしく「信長」とか、「義経」とか、「龍馬」とかいってもよさそうなのに「十兵衛」と答えていた。どうせ当時読んでいた少年漫画に十兵衛が出てきて、カッコよかったからとかそんな理由だったろうが、実は十兵衛については全然知らなかったのだ。本書によって、十数年越しに、あの選択は間違いではなかったと思える十兵衛のカッコよさにやられてしまった感じではある。しかし、よくよく考えてみれば、「好きな」でも「尊敬する」でもなく、「なりたい歴史上の人物」である。本書はフィクションとしてもこんな苦労の多い人物に今現在の呑気に暮らしたい私はなりたいとは思わない。だとしたら誰かな。あんまり苦労はせず、非業の死を遂げず、ちょっと権力もある趣味人で楽しく暮らしていそうな粋な人物がいいなぁ。松浦静山とか。と、思ったら、隠居前は藩政改革とかして結構優秀で立派な人なのね。もっと呑気で粋な人いないかな。

閑話休題。山田風太郎は、今回も加藤家改易という地味なお家騒動や天海が芦名氏の出だということを元に、想像力を働かせてこれほど面白いものを書いてしまうのだから。やはり凄いね。

登場する主な歴史上の人物

柳生三厳、沢庵、加藤明成、堀主水、天秀尼、天樹院(千姫)、松平信綱、庄司甚兵衛、南光坊天海、伊達政宗、柳生宗矩など。

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2007年10月 5日 (金)

山田風太郎『伊賀忍法帖』講談社文庫、1999年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズ第11作目。初出は実業之日本社の雑誌『週刊漫画サンデー』1964年4月1日号~8月26日号。

戦国の梟雄・松永久秀は、主君である三好長慶の嫡男義興の夫人・右京大夫に恋慕し、日本に戦国の世が続くことを望み、松永の覇気を維持させたい果心居士が美しい女の愛液を煮詰めてつくる媚薬「淫石」をつくることを勧める。これに同意した松永は、果心居士配下の根来忍法僧を使って領内の美女をさらい始め、運悪く主人公の伊賀忍者笛吹城太郎の妻が彼らに奪われてしまう。城太郎は妻を取り戻すために根来忍法僧と死闘を繰り広げる。

書いていて恥ずかしくなるぐらいにとんでもない内容である。愛液から媚薬をつくるという発想も発想だが、それを煮詰めるのが名器・平蜘蛛というのも振るっている。しかも、松永の東大寺焼討ちも、このしょうもない計画のためになされたという設定も、そこまでやるか、というものである。内容が内容だけに、風太郎ファンじゃなきゃお薦めできないが、意外と本書から風太郎に入った人も多いようだ(『忍法忠臣蔵』の「巻末エッセイ」を書いている馳星周氏もそうらしい)。

この根来忍法僧という坊さんたちが凄まじく、「忍法帖」シリーズにおける悪人フラッグ「女を犯して殺す」という悪行を繰り返す。しかし、この風太郎先生特有の悪人フラッグは、これほど読者に不快感を与える悪行はないが、他にこれ以上の「こいつに早く天誅が下りますように」と思わせる悪行は私の想像力からは考えられない。風太郎先生にはかなわないなぁ。この悪人フラッグは、どの作品が初出なのだろうか。前作の『柳生忍法帖』にはあったが。。

登場する主な歴史上の人物

松永久秀、千利休、柳生宗厳、果心居士、服部正成、三好義興、上泉信綱など。

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2007年10月 4日 (木)

山田風太郎『忍法忠臣蔵』講談社文庫、1998年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズの第7作目。初出は実業之日本社の雑誌『週刊漫画サンデー』1961年11月25日号~62年4月21日号。

ご存知の忠臣蔵の裏面から描いた作品。吉良上野介の首を狙う赤穂浪士たちを吉良の息子上杉綱憲は能登忍者を使って暗殺を試み、上杉家家老の千坂兵部は女忍者を使って仇討防止に色仕掛けで浪士の骨抜きを企てる。つまり上杉方の路線対立に忍者が使われているということだ。その千坂側の女忍者を監視・指揮するのが主人公・無明綱太郎。この主人公というのが、とてつもない伊賀忍者で、忠義を振りかざして自分よりも将軍に侍ることを選んだ恋人が御寝所に入る直前に、彼女を刺身にして将軍に見せつける、というとんでもない奴だ。この刺身シーンは、日本文学史上屈指の凄惨な場面であろう。これを見るだけでも本書を読む価値は十分にある。

本書は、赤穂浪士の脱盟の裏舞台を描いた作品で、その色仕掛けの忍法そのものも面白いのだが、それだけではない、読者にあっと思わせる場面がある。それは、赤穂浪士が忠義のためと称して家族をかえりみず活動する裏で、彼らの妻や姉妹、娘が生活を支えるために身を売って、ある者は病に冒され、ある者は精神に異常をきたすなど、悲惨な境遇に陥れられる。そんな彼女たちを入れた長持ちに最後の脱盟者・毛利小兵太は押し込められ、大石内蔵助の前に引き出される。そこで彼は自分たちの忠義という正義が、これらの女の前に打ち砕かれ、かえって罪であったことを訴える。これは、忠臣蔵を楽しみ、彼らを義士を祭り上げてきた時代小説読者に一つの「真理」を叩きつける。私は、赤穂浪士の話をそんなに興味を持っていなかった者だが、これには意表をつかれて打ちのめされた。しかし、次に女たちがとる行動に。。。風太郎先生の一筋縄ではいかない筆さばきに驚嘆するしかない。これによって、本作は、忍者がただ殺しあうだけの小説という忍法帖のパターンに収まりきれない傑作となったといえるだろう。

登場する主な歴史上の人物

徳川綱吉、大石良雄、吉良義央、上杉綱憲、千坂高房、高田郡兵衛、奥野定良、進藤俊式、田中貞四郎、小山良師、毛利小兵太、不破正種、堀部武庸、矢頭教兼、武林隆重、吉田兼亮、内田元知など。

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2007年10月 3日 (水)

山田風太郎『甲賀忍法帖』講談社文庫、1998年

山田風太郎の「忍法帖」シリーズの第1作目。初出は光文社の雑誌『面白倶楽部』1958年12月号~59年11月号。

服部半蔵に不戦の約定を取り交わされていた甲賀と伊賀の忍者たちが、徳川三代将軍の座をかけて、両者と闘わせるという徳川家康の命によって精鋭忍者各10名によって死命を決する。近年ではせがわまさき『バジリスク』が漫画化・アニメ化しているので、最も有名な作品だろう(ちなみに『バジリスク』は驚くほど原作に忠実で、キャラクターも原作のイメージ通りである)。

本書の凄さは、文庫本一冊という制約の中で、メインキャラクター20人が次々と死んでいく中で、強烈な個性を発揮して鮮烈な印象を残しているという人物造形がある。彼らは、それぞれに見せ場を与えるような奇想天外な忍法を駆使しているためであろうが、見せ場を作ると死亡フラッグがつくというように、人物に感情移入する前に死んでしまう。それでありながら、それぞれに印象が残っているのだから、風太郎先生の技量に感嘆してしまう。

私は、「忍法帖」シリーズで最高傑作は本作であろう、と今のところ思っている(『魔界転生』は、ある意味反則技みたいなものだから、それは除く)。それは、ストーリーのシンプルさとキャラクターの強烈さによる。本作を除く「忍法帖」は、ストーリー内に様々なルールが存在したりして複雑になり、また主人公のキャラクターやヒーロー性があまりに巨大化しすぎているために、他の忍者たちがあまり映えないのだが、本作はそれぞれに一定の魅力が与えられている。そこが他の作品とは、まったく異にするところであり、また最高傑作であるゆえんだと思う。

また本作は、それまでの一対一や一人対多数というような大衆時代小説とは異なり、グループ同士の対決という手法を発明したことで著名で、後のサブカルチャーの原型をつくった画期的作品であるらしい。私のように風太郎中毒になるのは考えものだが、一時代をつくった古典という教養の意味で、読む価値は十分にある。他の作品に比べ、残虐シーンも少ないので、不愉快なシーンの嫌いな方や心臓の弱い方でも楽しめます。

登場する主な歴史上の人物

徳川家康、南光坊天海、服部正広、柳生宗矩、阿福(春日局)など。

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2007年10月 2日 (火)

山田風太郎『エドの舞踏会』ちくま文庫、1997年

山田風太郎の「明治小説全集」の第8巻。初出は『週刊文春』1982年1月7日号~10月14日号。

海軍少佐・山本権兵衛が、西郷従道から元勲夫人の舞踏会への出席勧誘係を命じられ、井上馨夫人、伊藤博文夫人、山県有朋夫人らを訪ね、そこで繰り広げられる彼女たちの過去や現在をミステリー風に描いた短編集。

時代背景は、鹿鳴館時代であるが、同時にジャーナリズム発達の時代であり、当時の新聞紙上をにぎわしたゴシップを風太郎先生が見事に味付けした作品だ。有名どころは、中井弘不在中に夫人を奪った井上馨や、泥酔して夫人を斬り殺した黒田清隆などがあるが、中には「青い目」をした子供を生んだ元勲夫人というまことしやかに噂される話もうまく話しに盛り込んでいる。

個人的に面白かったのは、首相官邸の誕生の秘密を描いた「伊藤博文夫人」、「道徳の権化」の秘密を探る「山県有朋夫人」、夫の暗殺者を助ける「大隈重信夫人」、生死を握られた陸奥宗光の秘策を描いた「陸奥宗光夫人」、名歌舞伎役者の親となる「ル・ジャンドル夫人」だろうか。

どれも面白いのだが、なによりも「日本海軍のオーナー」(司馬遼太郎)で、首相在任時には軍部大臣現役武官制を廃止したことや普選にも意欲を示していたことで評価の高い山本権兵衛を主人公に選んだあたりのセンスが光ります。

登場する主な歴史上の人物

山本権兵衛・登喜子夫人、西郷従道、大山巌・捨松夫人、ル・ジャンドル(リ・ゼンドル)・糸子夫人、フォン・ベルツ・花子夫人、伊藤博文・梅子夫人、山県有朋・友子夫人、森有礼・常子夫人、黒田清隆・瀧子夫人、大隈重信・綾子夫人、陸奥宗光・亮子夫人、井上馨・武子夫人、ピエール・ロティ、ジョサイア・コンドル・久米夫人、青木周蔵・エリザベット夫人、中井弘、マダム貞奴、吉田貞子、嘉納治五郎、西郷四郎、富田常次郎、山下義韶、横山作次郎、来島恒喜、頭山満、三島通庸、伊庭八郎、徳富猪一郎、大江卓 、15代目市村羽左衛門(坂東竹松)、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎、初代市川左団次、中村福助(5代目中村歌右衛門)

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2007年9月29日 (土)

山田風太郎『明治バベルの塔』ちくま文庫、1997年

山田風太郎の『明治小説全集12』の短編集。

「明治バベルの塔」は、万朝報を舞台に黒岩涙香が、秋山定輔が発行したライバル紙「二六新報」の福引抽選に対抗するため、考え出した賞金つき暗号クイズをめぐる話。「バベルの塔」はバラバラになったカタカナの比喩である。当初は、純粋なクイズであったが、政界スキャンダルをクイズの問題になったところから殺人事件が起り、最後には幸徳秋水が出した問題に思わぬスキャンダルのヒントが。。初出は『小説新潮』1981年3月号。

「牢屋の坊っちゃん」は、日清戦争の講和条約会議のために来日した李鴻章を狙撃した小山六之助の監獄生活を夏目漱石『坊っちゃん』の文体で描く、痛快な小説。しかし、痛快ではあるが何か物悲しさが作品全体におおっており、最後の文章に何故か泣けてきた。初出は『オール読物』1986年5月号。

「いろは大王の火葬場」は、牛鍋チェーンの木村荘平が始めた火葬場の始めての客を探す話。明治の一時期に亡くなっていった人々へのレクイエム的な作品で、同時期にこれほどの大物達がなくなっていたのかと少々驚く。初出は『小説現代』1979年8月号。

「四分割秋水伝」は、大逆事件に連座した幸徳秋水をタテマエの「上半身」、凡俗の姿を見せる「下半身」、幸徳の逆の側面をみる「背中」、幸徳自身も認めないであろう原始深部の声を描いた「大脳旧皮質」と様々な面から人物造形を行っている。なるほど、これが関川夏央・谷川ジロー『「坊っちゃん」の時代・明治流星雨』の原作だったんだな、と。初出は『オール読物』1984年8月号。

「明治暗黒星」は、幕末の隻腕の剣客伊庭八郎の弟想太郎を主人公とした話。剣の時代時代が終り、ついに道場を売らなければならないはめになった想太郎が、ある時幕末の伊庭家に出入りしていた浜吉と兄八郎の恋人が合乗車に乗っているのを見かけた。浜吉は、その時、星亨と名を変えてた。初出は『小説現代』1973年12月号。

これら作品は、どれも面白く、読書が心地いいのだが、個人的には「牢屋の坊っちゃん」がお気に入り。漱石の文体を真似しているため、漢字の少ない風太郎先生にしては表現が硬いのだが、何故か物悲しいのである。また「明治暗黒星」は、風太郎作品にいくつかある暗殺者と対象者の奇妙な関係を描いた作品だが、ここまで見事に書かれているとこれが事実かと錯覚してしまう。

登場する主な歴史上の人物

内村鑑三、田中正造、夏目金之助、斎藤緑雨、幸田露伴、馬場弧蝶、与謝野寛、川路利良、初代市川左団次、ラフカディオ・ハーン、野口寧斎、野口男三郎、岸田吟香、福地桜痴、小村寿太郎、菅野須賀子、大石誠之助、内山愚童、堺利彦、坂本清馬、荒畑寒村、新村忠雄、古河力作、宮下大吉、榎本武揚など。

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2007年9月28日 (金)

山田風太郎『ラスプーチンが来た』ちくま文庫、1997年

最近、「山田風太郎」の名をよく耳にするようになった。加藤弘之と遠い親族関係だとか、井上寿一『日中戦争下の日本』で後半の鋭い観察者としてとか、先日行った研修会で某大物経済学の先生に加藤弘之の話をしたら「僕は山田風太郎が好きでねぇ」といわれたとか。

そんなわけでずいぶん前に読みさしだった本書を読んだら、風太郎先生にはまってしまった。本書は、いわゆる「明治もの」の作品で、詳しいことは知らないが、「明治もの」の中では珍しく、長編である。この作品以外の「明治もの」は題名が同じで主人公が同じであっても、各章が一篇の作品になっている短編集という趣であるが、本書は最初から最後まで一応つながっている長編なのだ。初出は「明治化物草紙」のタイトルで『週刊読売』1979年12月2日号~80年6月15日号。初刊時に『ラスプーチンが来た』と変更され、加筆された。

本書の主人公は、日露戦争中のロシアやヨーロッパでの工作活動で有名な明石元二郎。豆を頬張り、ところかまわず放屁をする快男児だ。舞台は、明治23年の森有礼の刺殺事件を導入部におき、翌年のいわゆるニコライ遭難といわれる大津事件をクライマックスとする明治日本。その時代に怪しげな宗教家稲城黄天にさらわれた少女を救い出すところから始まり、この時代に生きた著名人をこれでもかというぐらいに登場させる痛快劇。

途中だれてしまって私も読みさしになってしまったのだが、はまって読めば面白い。とにかく人物造形がすばらしく、本書を読むと実際の歴史上の人物のイメージがこれによって固定されてしまうのではないかと思わせるぐらいうまい。これは、歴史上の人物や大事件を事実に即したいわゆる歴史小説ではなく、主に江戸時代を舞台にした時代小説のように、歴史上の人物を使った完全なフィクションであり、その時代の空気を純粋に楽しむ小説だ。それがためにどうも山田風太郎の「明治小説」は事実にこだわる歴史オタクには、人気がなく、文学系の人々に人気を博しているのだろう。事実に即した歴史小説なんか読み飽きて、研究書や実際にこの時代に書かれたものを読んでいるような一回りした歴史オタクにはかえって面白く感じるだろう(私がそうだ)。これほど著名人が贅沢なほど登場して、活劇するものは他にはないのだから。

しかし、これほど面白い明治時代小説は後続があまり育っていないような気がする。江戸時代の時代小説は、まだまだ根強い人気があって、映画にもなるのに、明治はまだ近すぎて遊びができないのだろうか。漫画では結構あるようだが。。

登場する主な歴史上の人物

明石元二郎、長谷川辰之助(二葉亭四迷)、内村鑑三、乃木希典、下田歌子(下田宇多子として)、飯野吉三郎(稲城黄天として)、森鴎外、谷崎潤一郎、津田三蔵、川上操六、川上音二郎、チェーホフ、ベルツ、ニコライ、ラスプーチンなど。

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