いまさら「白旗」考
先日実家に帰った際、みなもと太郎『風雲児たち』を読み返していたら、これに触発されて、小谷野敦『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』(教育出版、1998年)、加藤祐三『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年)、大石慎三郎『田沼意次の時代』(岩波現代文庫、2001年)、岸俊光『ペリーの白旗』(毎日出版社、2002年)を読んでしまった。
このラインナップは、みなもと氏の評価が著しく高い田沼意次とはどういう人物であったか、と小谷野氏の愛読者である私としては『風雲児たち』で描かれた間宮林蔵を小谷野氏がどのように論じているかに関心があったからだ。そして、『風雲児たち幕末編』第3巻で描かれているペリーの白旗事件について、みなもと氏が『ワイド版風雲児たち』第15巻ギャク注で「このエピソードは結局「ピルトダウン人骨」なみのつくり話に過ぎないことが判明、「幕末編」にはギャグ注欄がないので、とりあえず、ここに記しておきます」と否定しているのを見て、何を根拠に否定するようになったのかを調べる必要を感じたのである。
みなもと氏が何を根拠に2003年8月段階でこのような方針転換をしたかは不明である。しかし、ひとつの要因として、当時の『新しい歴史教科書』を巡る議論で反対派の宮地正人氏が「白旗書簡は偽書である」と述べたことに原因がありそうである。みなもと氏はギャグ注の中で文部省教科書書き換え誤報事件を機に「最近の歴史教科書の右傾化、云々」と述べていることから、『新しい歴史教科書』には反対の立場を取っているように思える。とすれば、その反対派の意見にコミットした可能性も出てくるわけである。
しかし、「ペリーの白旗」は今のところどのように扱われているのか。
まず黒船来航に関して、前述した加藤氏の著作はどのように知るしているか。ここで加藤氏は、1853年7月9日(陰暦6月4日)の交渉で米国側のペリー副官コンティが日本側の香山栄左衛門に「決裂も辞さないつもりか、「用向きには白旗を立ててくれれば鉄砲は打たない」ともつけ加えた」(16頁)と簡単に述べている。また、あとがきで「ある種のトラウマであろうか、ペリーが幕府に「白旗」を渡し、降伏する時にはこの「白旗」を掲げよと恫喝したと強調する学者がいる。日米双方の資料を見ても、この種の主張には根拠がない。本書でも書いたとおり、測量や伝令など、軍事行動とは直接に関係のない行動にはペリー艦隊の小船が白旗を掲げており、この絵を描いたのは同行画家ハイネである。白旗の使用は操船マニュアルに沿う常識であった。それを「降伏」要求という政治レベルまで拡張解釈するのは、いかがなものか」(246~247頁)とも述べている。ここで疑問なのは16頁で「白旗」にふれた際、香山が「異人一同、顔に殺気をあらわし」という感想を残していると書いているのである。16頁の記述は明らかに「恫喝」を含むものであるのに、あとがきでは「測量」など中立的な白旗の役割を強調しているのはどのようなわけであろうか。しかし、とりあえずの解釈に相違があるとはいえ、白旗のやり取りがあったことは彼も認めるところなのであろう。
次に「白旗書簡」ニセモノ派の宮地氏の論を見てみる。これは歴史学研究会のホームページの資料室に掲載されている宮地正人「ペリーの白旗書簡は偽文書である」を参考にした。『新しい歴史教科書』2001年版のコラムで論拠とした『幕末外国関係文書』第一巻所収「嘉永癸丑浦賀一件数條」の史料的問題点を指摘した。その問題となる文書は以下の通り。
一亜墨利加国より贈来ル箱の中に、書翰一通、白旗二流、外ニ左之通短文一通、
皇朝古体文辞 一通 前田夏陰読之
漢文 一通 前田肥前守読之
英吉利文字 一通 不分明
右各章句の子細は、先年以来、彼国より通商願有之候処、国法之趣にて違背に及、
殊ニ漂流等之族は、自国之民といへ共、撫恤せざる事、天理に背き、至罪莫大に候、
依ては通商是非是非希ふにあらす、不承知に候べし、此時ハ時宜に寄、干戈を以て、
天理に背きし罪を糾也、其時は、又国法を以て、防戦致されよ、必勝ハ我にあり、
敵対兼可申歟、其節に至て、和降願度候ハハ、予か贈る所の白旗を押立示すべし、
即時に砲を止め艦を退く、此方の趣意如此、
この文書での決定的な問題は書簡に「皇朝古体文辞」で書かれたものがあるということである。つまりペリー側に日本語を書くことのできた人物がいなければならないと指摘したことに宮地氏の批判には説得力があるのである。また、漢文を読んだという「前田肥前守」はこの時期存在していないことを指摘した点も大きい。
しかし、どうやら宮地氏もペリー側と日本とで白旗のやり取りがあったであろうことは認めている(『幕末外国関係文書』の6月4日のやり取りを根拠)。つまり、宮地氏は白旗書簡および白旗の授受を史料が不適切であるため、否定しているのである。
そう考えれば、みなもと氏は『風雲児たち』で書簡について描いているわけでないので全く虚構であるとする根拠はないのである。しかし、問題は宮地氏もやり取りはあったとしても白旗は「砲艦外交」の象徴ではなく、「交渉の印」として説明されていたと考えるべきだとしている(そのわりに岸著でペリーの外交姿勢は「砲艦外交」だと宮地氏も同意している)。つまり、みなもと氏の描写は白旗を「降伏」を意味するものとしているため、ここでも問題は出てくるのである。
そもそも白旗問題は松本健一氏が「白旗が日本において降伏を意味するようになったのはいつからか」という疑問から始まり、それは「ペリーから教えてもらった」と結論付けた『白旗伝説』から始まる。『新しい歴史教科書』2001年版もこれに依拠している。宮地氏の批判により、文書の手交は否定されたといってよいだろう。また、白旗のやり取りがあったことも否定する論者がいないため、これは事実として確定してよいであろう。後の問題は白旗の解釈であり、そして松本氏が主張するように当時の日本人は白旗を源平の赤旗・白旗ぐらいの認識であって、ペリーが白旗を日本に送ることで日本人は国際法秩序を学んだという理解が正しいかである。
白旗の解釈は、論者の米国への認識によって様々に解釈される余地が残るし、私はそれほどの関心はない。私の関心は、徳川期の日本人が国際法上の白旗理解をしていたのか、否かにある。それを喚起してくれたのは前述した小谷野敦氏の著作である。
小谷野氏は著書の「エトロフ島事件」(1807年4月)に関するところで、久保田見達『北地日記』(新楽閑叟『二叟譚奇』所収)に依りつつ叙述している。そこでロシア船が沖合いに現われた際、箱館奉行調役下役元締の戸田又太夫、その下役関谷茂八郎がロシア船が近づいてきたのはあちらに何か伝えたことがあって来たと考え、発砲せずに玉止めの合図をせよと命じた。「そこでその命を受けた支配人の川口陽助が、三尺ばかりの白木綿を長い棒の先に結び付けて海岸のほうへ走っていく。そのあとを数人が、アイヌと一緒に鉄砲を担いでついてゆく。さて、海岸では陽助が布を振る。ロシア人は鉄砲を撃ちかけてきたが、これを合図を受けたものと理解した日本側では、こちらで鉄砲を撃つのはやめて、山のほうへ向って玉払いをした。するとロシア人たちは、櫂を押し立て、五連発砲を背負って上陸を開始したのである」。そして、陽助は上陸したロシア人に股を撃たれほうほうの態で引上げた。小谷野氏は「ロシア人たちはすでにナイホで乱暴を働き、日本人を捕虜にしているのだから、戦闘状態である。そこから考えると、白旗掲げて交渉に向かわせる戸田・関谷の戦術はのんきすぎるというべきかもしれない」と評している(40~44頁)。しかし、戦闘状態だからこそ、白旗が役に立つと考えるべきであろうが、ロシア人はかまわず撃ってきたようである。
ここで書かれているように幕府の下級役人に過ぎない戸田や関谷が国際法上の白旗利用法を知っていたということである。これを補足するものとして、前述した岸俊光氏の著作で『長崎オランダ商館日記』の1807年(文化4)8月6日にオランダ人が「ロシア人と話したいなら、船に少数の人を乗り込ませ、その舳先に白旗を掲げて行くべきであり、そうすればロシア人は疑いなく彼らと会談するであろう」とアドヴァイスしていることが指摘されている(222~223頁)。これはエトロフ島事件よりも数ヶ月後の記録であり、それ以前からでも日本人は白旗を理解していたといえよう。つまり、松本氏が主張するように徳川期の日本人が白旗を単に源平の赤旗・白旗という程度の理解で、ペリー以降、国際法上の白旗理解を学んだとする仮説には疑義を呈さざるを得ない。ただ松本氏の論点は、ペリーの白旗のショックが後の日本人に白旗=降伏という観念を生んだとする仮説である。ペリー以前から日本人が「交渉の印」としての白旗を理解していたとすれば、ペリー側との白旗を巡るやり取りは「交渉の印」以外の利用法、つまり「降伏」としての白旗利用を学んだと見ることもできる。松本氏の仮説の枝葉は刈り取られつつあるとしても幹はまだ生きているといえるかもしれない。
あともう一点。これは近代国際法とは関係がない話であろうけれども、古代の東アジアで「白旗」を使っていたという記述を見つけた。それは『日本書紀』である。まず一箇所目は、景行天皇が「熊襲征伐」に向かった際、当地の女王神夏磯媛が天皇の使いがやってきたことを聞いて、帰順する旨を伝える船の舳先に「白旗」を立ててやってきたというのだ。また二箇所目は神功皇后の「三韓征伐」の際に新羅の王が「白旗をあげて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた」(上巻、講談社学術文庫、1988年、191頁)という部分。三箇所目は、欽明天皇の時に新羅に任那を滅ぼされた後、新羅を討とうとした際に、「新羅は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。河辺臣瓊岳は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。すると新羅の武将は、「将軍河辺臣はいま降伏した」といって、軍を進め鋭く撃破した」(下巻、50頁)とある。四箇所目は推古天皇の時、やはり新羅との戦闘中、「新羅王は白旗をあげて(中略)降服を願い出た」(下巻、89頁)。まだあるかもしれないが、これはどうしたわけか。
景行天皇の例は、「交渉の印」ともとれるが、どうやら三箇所目と四箇所目の例からすると白旗は「降伏」を意味するものとして通用していたらしい。戦時に白旗を掲げて降伏するという慣習は西洋産だと考えられていたが、古代の東アジアで行われていたことが西洋に伝わって近代に至って制度化されたのか。中国の歴史書の中にはこの事例はあるのだろうか。私は他に東アジアで白旗が使われていた事例を知らないし、国際法の白旗の起源もまだ調べてきれていない。しかし、恐らく東アジアの白旗慣例は忘れられていたのだろう。先の「エトロフ事件」の白旗は、この古代の慣例によるのではなしに、西洋の慣習をどこかで学んだ上だと思われる。何故なら、古代の例は「降伏」の白旗で、「交渉の印」ではないからだ。また、明治期の啓蒙知識人加藤弘之の読書録「疑堂備忘」にも「日本紀仲哀紀六枚ニ新羅王和軍ニ抗ス可ラサルヲ知リ素旆(シロハタ)ヲ立テ降服シタルコトアリ」(『加藤弘之文書』第1巻、同朋舎出版、1990年、168頁)と「素旆」に強調点をつけて記している。ということは、加藤もこの東アジアの慣習は知らず、西洋の国際法との符合に驚いたと見るべきだろう。私もこの符合に驚かされるが、これは今後の研究となるだろう。
これらのことで解ったことは、ペリー来航時に確かに白旗に関するやり取りはあったが、米国側が白旗とそれを説明する書簡を渡したとする史料的根拠はない。この時の白旗を「交渉の印」と見るか、「降伏」と見るかの解釈はまだ確定できない。徳川期の日本人は「交渉の印」としての白旗を理解していた。一方、古代の東アジアでは、「降伏」を示すものとして白旗が使われていたが、その後忘れられていたようだ。今後、新しい研究を待ちたい。
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