2007年3月30日 (金)

いまさら「白旗」考

先日実家に帰った際、みなもと太郎『風雲児たち』を読み返していたら、これに触発されて、小谷野敦『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』(教育出版、1998年)、加藤祐三『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年)、大石慎三郎『田沼意次の時代』(岩波現代文庫、2001年)、岸俊光『ペリーの白旗』(毎日出版社、2002年)を読んでしまった。

このラインナップは、みなもと氏の評価が著しく高い田沼意次とはどういう人物であったか、と小谷野氏の愛読者である私としては『風雲児たち』で描かれた間宮林蔵を小谷野氏がどのように論じているかに関心があったからだ。そして、『風雲児たち幕末編』第3巻で描かれているペリーの白旗事件について、みなもと氏が『ワイド版風雲児たち』第15巻ギャク注で「このエピソードは結局「ピルトダウン人骨」なみのつくり話に過ぎないことが判明、「幕末編」にはギャグ注欄がないので、とりあえず、ここに記しておきます」と否定しているのを見て、何を根拠に否定するようになったのかを調べる必要を感じたのである。

みなもと氏が何を根拠に2003年8月段階でこのような方針転換をしたかは不明である。しかし、ひとつの要因として、当時の『新しい歴史教科書』を巡る議論で反対派の宮地正人氏が「白旗書簡は偽書である」と述べたことに原因がありそうである。みなもと氏はギャグ注の中で文部省教科書書き換え誤報事件を機に「最近の歴史教科書の右傾化、云々」と述べていることから、『新しい歴史教科書』には反対の立場を取っているように思える。とすれば、その反対派の意見にコミットした可能性も出てくるわけである。

しかし、「ペリーの白旗」は今のところどのように扱われているのか。

 

まず黒船来航に関して、前述した加藤氏の著作はどのように知るしているか。ここで加藤氏は、1853年7月9日(陰暦6月4日)の交渉で米国側のペリー副官コンティが日本側の香山栄左衛門に「決裂も辞さないつもりか、「用向きには白旗を立ててくれれば鉄砲は打たない」ともつけ加えた」(16頁)と簡単に述べている。また、あとがきで「ある種のトラウマであろうか、ペリーが幕府に「白旗」を渡し、降伏する時にはこの「白旗」を掲げよと恫喝したと強調する学者がいる。日米双方の資料を見ても、この種の主張には根拠がない。本書でも書いたとおり、測量や伝令など、軍事行動とは直接に関係のない行動にはペリー艦隊の小船が白旗を掲げており、この絵を描いたのは同行画家ハイネである。白旗の使用は操船マニュアルに沿う常識であった。それを「降伏」要求という政治レベルまで拡張解釈するのは、いかがなものか」(246~247頁)とも述べている。ここで疑問なのは16頁で「白旗」にふれた際、香山が「異人一同、顔に殺気をあらわし」という感想を残していると書いているのである。16頁の記述は明らかに「恫喝」を含むものであるのに、あとがきでは「測量」など中立的な白旗の役割を強調しているのはどのようなわけであろうか。しかし、とりあえずの解釈に相違があるとはいえ、白旗のやり取りがあったことは彼も認めるところなのであろう。

次に「白旗書簡」ニセモノ派の宮地氏の論を見てみる。これは歴史学研究会のホームページの資料室に掲載されている宮地正人「ペリーの白旗書簡は偽文書である」を参考にした。『新しい歴史教科書』2001年版のコラムで論拠とした『幕末外国関係文書』第一巻所収「嘉永癸丑浦賀一件数條」の史料的問題点を指摘した。その問題となる文書は以下の通り。

一亜墨利加国より贈来ル箱の中に、書翰一通、白旗二流、外ニ左之通短文一通、
 皇朝古体文辞  一通  前田夏陰読之
 漢文      一通  前田肥前守読之
 英吉利文字   一通  不分明
  右各章句の子細は、先年以来、彼国より通商願有之候処、国法之趣にて違背に及、
  殊ニ漂流等之族は、自国之民といへ共、撫恤せざる事、天理に背き、至罪莫大に候、
  依ては通商是非是非希ふにあらす、不承知に候べし、此時ハ時宜に寄、干戈を以て、
  天理に背きし罪を糾也、其時は、又国法を以て、防戦致されよ、必勝ハ我にあり、
  敵対兼可申歟、其節に至て、和降願度候ハハ、予か贈る所の白旗を押立示すべし、
  即時に砲を止め艦を退く、此方の趣意如此、

この文書での決定的な問題は書簡に「皇朝古体文辞」で書かれたものがあるということである。つまりペリー側に日本語を書くことのできた人物がいなければならないと指摘したことに宮地氏の批判には説得力があるのである。また、漢文を読んだという「前田肥前守」はこの時期存在していないことを指摘した点も大きい。

しかし、どうやら宮地氏もペリー側と日本とで白旗のやり取りがあったであろうことは認めている(『幕末外国関係文書』の6月4日のやり取りを根拠)。つまり、宮地氏は白旗書簡および白旗の授受を史料が不適切であるため、否定しているのである。

そう考えれば、みなもと氏は『風雲児たち』で書簡について描いているわけでないので全く虚構であるとする根拠はないのである。しかし、問題は宮地氏もやり取りはあったとしても白旗は「砲艦外交」の象徴ではなく、「交渉の印」として説明されていたと考えるべきだとしている(そのわりに岸著でペリーの外交姿勢は「砲艦外交」だと宮地氏も同意している)。つまり、みなもと氏の描写は白旗を「降伏」を意味するものとしているため、ここでも問題は出てくるのである。

そもそも白旗問題は松本健一氏が「白旗が日本において降伏を意味するようになったのはいつからか」という疑問から始まり、それは「ペリーから教えてもらった」と結論付けた『白旗伝説』から始まる。『新しい歴史教科書』2001年版もこれに依拠している。宮地氏の批判により、文書の手交は否定されたといってよいだろう。また、白旗のやり取りがあったことも否定する論者がいないため、これは事実として確定してよいであろう。後の問題は白旗の解釈であり、そして松本氏が主張するように当時の日本人は白旗を源平の赤旗・白旗ぐらいの認識であって、ペリーが白旗を日本に送ることで日本人は国際法秩序を学んだという理解が正しいかである。

白旗の解釈は、論者の米国への認識によって様々に解釈される余地が残るし、私はそれほどの関心はない。私の関心は、徳川期の日本人が国際法上の白旗理解をしていたのか、否かにある。それを喚起してくれたのは前述した小谷野敦氏の著作である。

小谷野氏は著書の「エトロフ島事件」(1807年4月)に関するところで、久保田見達『北地日記』(新楽閑叟『二叟譚奇』所収)に依りつつ叙述している。そこでロシア船が沖合いに現われた際、箱館奉行調役下役元締の戸田又太夫、その下役関谷茂八郎がロシア船が近づいてきたのはあちらに何か伝えたことがあって来たと考え、発砲せずに玉止めの合図をせよと命じた。「そこでその命を受けた支配人の川口陽助が、三尺ばかりの白木綿を長い棒の先に結び付けて海岸のほうへ走っていく。そのあとを数人が、アイヌと一緒に鉄砲を担いでついてゆく。さて、海岸では陽助が布を振る。ロシア人は鉄砲を撃ちかけてきたが、これを合図を受けたものと理解した日本側では、こちらで鉄砲を撃つのはやめて、山のほうへ向って玉払いをした。するとロシア人たちは、櫂を押し立て、五連発砲を背負って上陸を開始したのである」。そして、陽助は上陸したロシア人に股を撃たれほうほうの態で引上げた。小谷野氏は「ロシア人たちはすでにナイホで乱暴を働き、日本人を捕虜にしているのだから、戦闘状態である。そこから考えると、白旗掲げて交渉に向かわせる戸田・関谷の戦術はのんきすぎるというべきかもしれない」と評している(40~44頁)。しかし、戦闘状態だからこそ、白旗が役に立つと考えるべきであろうが、ロシア人はかまわず撃ってきたようである。

ここで書かれているように幕府の下級役人に過ぎない戸田や関谷が国際法上の白旗利用法を知っていたということである。これを補足するものとして、前述した岸俊光氏の著作で『長崎オランダ商館日記』の1807年(文化4)8月6日にオランダ人が「ロシア人と話したいなら、船に少数の人を乗り込ませ、その舳先に白旗を掲げて行くべきであり、そうすればロシア人は疑いなく彼らと会談するであろう」とアドヴァイスしていることが指摘されている(222~223頁)。これはエトロフ島事件よりも数ヶ月後の記録であり、それ以前からでも日本人は白旗を理解していたといえよう。つまり、松本氏が主張するように徳川期の日本人が白旗を単に源平の赤旗・白旗という程度の理解で、ペリー以降、国際法上の白旗理解を学んだとする仮説には疑義を呈さざるを得ない。ただ松本氏の論点は、ペリーの白旗のショックが後の日本人に白旗=降伏という観念を生んだとする仮説である。ペリー以前から日本人が「交渉の印」としての白旗を理解していたとすれば、ペリー側との白旗を巡るやり取りは「交渉の印」以外の利用法、つまり「降伏」としての白旗利用を学んだと見ることもできる。松本氏の仮説の枝葉は刈り取られつつあるとしても幹はまだ生きているといえるかもしれない。

あともう一点。これは近代国際法とは関係がない話であろうけれども、古代の東アジアで「白旗」を使っていたという記述を見つけた。それは『日本書紀』である。まず一箇所目は、景行天皇が「熊襲征伐」に向かった際、当地の女王神夏磯媛が天皇の使いがやってきたことを聞いて、帰順する旨を伝える船の舳先に「白旗」を立ててやってきたというのだ。また二箇所目は神功皇后の「三韓征伐」の際に新羅の王が「白旗をあげて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた」(上巻、講談社学術文庫、1988年、191頁)という部分。三箇所目は、欽明天皇の時に新羅に任那を滅ぼされた後、新羅を討とうとした際に、「新羅は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。河辺臣瓊岳は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。すると新羅の武将は、「将軍河辺臣はいま降伏した」といって、軍を進め鋭く撃破した」(下巻、50頁)とある。四箇所目は推古天皇の時、やはり新羅との戦闘中、「新羅王は白旗をあげて(中略)降服を願い出た」(下巻、89頁)。まだあるかもしれないが、これはどうしたわけか。

景行天皇の例は、「交渉の印」ともとれるが、どうやら三箇所目と四箇所目の例からすると白旗は「降伏」を意味するものとして通用していたらしい。戦時に白旗を掲げて降伏するという慣習は西洋産だと考えられていたが、古代の東アジアで行われていたことが西洋に伝わって近代に至って制度化されたのか。中国の歴史書の中にはこの事例はあるのだろうか。私は他に東アジアで白旗が使われていた事例を知らないし、国際法の白旗の起源もまだ調べてきれていない。しかし、恐らく東アジアの白旗慣例は忘れられていたのだろう。先の「エトロフ事件」の白旗は、この古代の慣例によるのではなしに、西洋の慣習をどこかで学んだ上だと思われる。何故なら、古代の例は「降伏」の白旗で、「交渉の印」ではないからだ。また、明治期の啓蒙知識人加藤弘之の読書録「疑堂備忘」にも「日本紀仲哀紀六枚ニ新羅王和軍ニ抗ス可ラサルヲ知リ素旆(シロハタ)ヲ立テ降服シタルコトアリ」(『加藤弘之文書』第1巻、同朋舎出版、1990年、168頁)と「素旆」に強調点をつけて記している。ということは、加藤もこの東アジアの慣習は知らず、西洋の国際法との符合に驚いたと見るべきだろう。私もこの符合に驚かされるが、これは今後の研究となるだろう。

これらのことで解ったことは、ペリー来航時に確かに白旗に関するやり取りはあったが、米国側が白旗とそれを説明する書簡を渡したとする史料的根拠はない。この時の白旗を「交渉の印」と見るか、「降伏」と見るかの解釈はまだ確定できない。徳川期の日本人は「交渉の印」としての白旗を理解していた。一方、古代の東アジアでは、「降伏」を示すものとして白旗が使われていたが、その後忘れられていたようだ。今後、新しい研究を待ちたい。

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2006年4月28日 (金)

富田信男「衆議院総選挙の史的分析(一)(二)」(日本選挙学会年報『選挙研究』1(1986),2(1987))

選挙のことをやるなら、日本選挙学会発行の『選挙研究』を読むのが当面の早道であろうと、第1号から歴史関連のものを渉猟。

本論文は、第1号、第2号に掲載されたもので、明治の1890年の第1回総選挙から1924年に施行された第15回総選挙までを分析している。ここで驚くのは、自分の無知ぶりである。恥を偲んで、ここでお勉強したものをまとめておく。

まず第1回目の総選挙から日本の選挙の特徴の一つが見て取れる。この選挙は、直接国税15円以上を納付する25歳以上の男性が有権者であり、小選挙区制で行われた。この制度は、後年の日本独特の選挙制度とは異なり、徹底した多数代表を理念としたものである。というのは、例外的に2人区もあったのだが、これは選出数と同数の候補者を投票する連記制が行われていたことだ。それはともかくとして、この選挙の「史的」特徴としては、各選挙区の候補者選定の基準が、「人物本位」と「地方主義(地縁関係)」ということだった。後者については、まだまだ旧藩意識の残る当時としては当然のことで、さらに各郡各村が多かれ少なかれ排他性・閉鎖性をもっていたことが要因となった。前者の方は、犬養毅に代表されるように家系、文名、政治家としての名声が基準となった。この選定基準というのも、当時の制限選挙では地域の有力者が集って、候補者の政見を聴き、他の候補者が立つのを許さないという状況がなせる業である。これを乗り越えるのは、候補者の「政治熱心」という個性しかない。

この選挙結果で特徴的なのは、総数300議席の内、191名が平民で、主な職業として地主及び農業が144名であるなど、「地主の議会」が誕生したことだ。無知な私は、民権運動の指導者層が旧武士だったことから、議会構成員も士族が多かろうと勝手に思っていたが、全く違うのだということを気づかされた。たしかに自由民権運動の初期は士族民権であり、後期は地主民権であるということは知識として持っていたが、議会構成に至るまで変化があったということは気づかなかった。しかし、こうしてみると藩閥官僚らが議会を軽視、又は警戒していたのも理解できる。何だかんだいっても、武士は自身の生活よりも公共的な意識が高かったわけであるし、まだまだ公共的な意識が弱いと思われる地主が議会の主体となって、国家政策に関与するようになれば、発展途上の近代国家としては、改革が後退する危険があるだろう。公共意識弱い分、特殊利益を優先するようになって、効率的な国家運営を阻害する要因となるからだ。これが、都市独立選挙区を設けて資本主義発展に適合した1900年の選挙法改正に繋がる要因となったのであろう。

次に興味深い選挙は、大隈重信内閣期の第12回総選挙である。これは戦前期の政党内閣期の選挙を形づくったものだった。具体的には、地方長官の更迭を行い、自党に有利な選挙を行えるよう下準備をしたことだ。つまりは、知事や警察部長等を押さえることで、与党候補者を援助し、不正を行っても見てみぬふりをさせるということで、野党への激しい選挙干渉を行なうのだ。そのため、後年の政党は選挙対策のため、できるだけ政権与党であることを望み、選挙による政権交代への道をふさいでしまい、政党政治をゆがんだものにしてしまった。現に、後の総選挙は、ほとんど政権与党が勝利することになった。唯一の例外である第二次護憲運動時の総選挙は、民本主義の評論家室伏高信が皮肉を言うほど清浦圭吾内閣が「公正な選挙」を行ったためとされる。また、大隈は「首相として遊説する先例」も作り、選挙の大衆化を計ったことで従来の選挙というものを一変させた。この第12回総選挙は功罪半ばするものといえるだろう。

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2006年4月25日 (火)

加藤秀治郎「日本における選挙制度論議の一般意味論的考察」(笠原英彦・玉井清編『日本政治の構造の展開』、慶應大学出版会、1998年)

この論文では、「中選挙区制」と「少数代表制」のような日本独自の概念が、人々の思考に影響を及ぼし、日本の選挙制度論議を枠づける役割を果たしているとして、「多数代表制」と「比例代表制」という世界一般に通じる概念から選挙制度を論じる必要がある、と論じている。

これら日本独自の概念が選挙制度論に及ぼす影響として、第一に過度に形式的な法律論議に陥りやすく、第二に選挙制度の相違が民主主義観の相違の反映とみるような政治思想との関連を軽視してしまうことが指摘されている。前者は、形式的な同一性を重視するため、ソ連の小選挙区制を英米と同列に扱ってしまい、自由選挙の有無という常識すら見落としてしまう可能性がある。後者は、思想的背景を前提としない議論となってしまうため、各選挙制度の「利害得失」の問題を扱いがちであり、選挙制度の最も重要なことは「民意の反映」であるなど、特定の前提で議論されてしまう結果になる。

私もおおむね著者の議論に同意する。しかし、この議論は一見正論であるが、著者がおそらく単純小選挙区制導入を理想としているため、他の多様な選挙制度は逸脱であるとして排除する意図が見えてしまう。

そもそも選挙制度は、立法府を構成する政治家が決定するもので理念どおり決定するものではなく、その時々の状況によって決まるものだ。そのため、何らかの操作は、そこに利害関係と権力関係という「政治」があるからであり、著者のように「形式的」な議論で決まるものではない。たしかに政治家のみならず、政治学者まで上記のような議論に考慮せず、無前提に特殊な制度を受容れることは問題である。しかし、田中論文で述べられているように、中選挙区制の導入には真剣な議論の下に、根拠を示して決定されたものであって、ただの政治的妥協によって生まれたものではない。そこには、「政治」と理念と国内状況の前提があったのだ。

しかし、選挙制度に関して、単に「利害得失」だけで政治思想的背景に従来注目されてこなかった面を指摘したことは重要である。その面への注目は、とりわけ数度の選挙制度改革を経験した戦前の民主主義観を考察する上で重要であり、私の現在の課題でもある。

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田中宗孝「大正十四年中選挙区制導入論議」(日本大学法学会『政経研究』第38巻第4号)

従来、普通選挙導入に焦点を合わされていた大正14年改正の衆議院選挙法の制定過程を、議事速記録から丹念に議論をひろって、中選挙区導入という視点から描いている。これに加えて平成における政治改革の時期の議論と対比することで、何故、中選挙区が導入されたのかを検証している。つまりは、何故大正14年では、比例代表制が採られなかったか、ということも浮かび上がってくる。

大正14年の議論では、政府側が大選挙区制と小選挙区制の長短をとり、少数代表制に目配りをした中選挙区制導入を図ったのに対して、野党側は現行の小選挙区制を多数代表制の観点から擁護している。前者は国民の縮図としての議会観であり、後者は強力な政権基盤としての議会観である。しかし、前者は国民民意の縮図として、少数代表の擁護としての選挙制度を選ぶなら、何故、それを徹底する比例代表制を選択しなかったのか。つまりは、国民が慣れていない選挙制度の導入に躊躇したからだという。

平成の議論では、既に参議院選挙で比例代表制が導入されていたこともあり、中選挙区制の利点である少数代表を擁護する論点はありえなかった。そのため、小選挙区か、比例代表かの議論に収束したのだという。

考えてみれば、日本では、小選挙区制、大選挙区制、中選挙区制を経験していたが、通常、大選挙区制は定員と同数を記名する連記制が普通である。しかし、日本では単記にこだわり続けていた。明治期においても大選挙区制に関しては、連記制を主張する議論はあったが、大体において作業の煩雑さと、大政党に有利(多数代表)との判断から単記が選ばれていた。ここに世界に例を見ない選挙制度が生れる原因があった。この作業の単純さと少数代表への配慮という論点が日本では常に選挙制度を決定している。この原因は何にあるのかは不明であるが、現在の小選挙区比例代表並立制は、日本の政治文化に適合的であり、単純小選挙区、単純比例代表は今後も成立しないということなのだろうか。

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2006年2月17日 (金)

河村又介「明治時代に於ける選挙法の理論及び制度の発達」(『国家学会雑誌』第56巻第11号、第12号、第57巻第2号

戦前期の選挙制度を思想史的に検討しよう、という研究の手始めに昭和17年、18年という戦中発表された論文に触れてみた。

著者は、九州帝国大学教授として憲法を研究し、戦後は、日本に初めて作られた最高裁判所の裁判官として司法界に貢献した河村又介である。正直、初めてみる名でお恥ずかしいが、私の関心の選挙法に関しては、そのものズバリ『選挙法』という著書もある。

本論文は、幕末期から明治22年の衆議院議員選挙法までを範囲として、この時期に構想された選挙制度に関する提言を数多く紹介してくれていて、研究を始めるにあたって、大変ありがたいものである。

この時期の特徴は、やはり選挙・被選挙権の範囲、選挙制度の様式などが議論に及んでいるが、帝国議会開設以降、俎上に上る小選挙区か大選挙区(比例代表)か、普通選挙という問題は、それほど重要視されていなかった。もっとも、小選挙区や普通選挙の可否について、全く議論がなかったわけではなかった、という点は注意を要しよう。

しかし、興味深いのは、複選法というものを当時の人々が関心を持って研究しているところである。複選法とは、いわば間接選挙で、選挙人と原選挙人とをわけ、原選挙人から選出された選挙人が、代議士を選出する方法、または府県会議員が代議士を選出する手法が多い。結局これは採用されなかったわけだが、もし採用されていれば、後の選挙法議論が多数党による政治法的技術論に終始したことを思えば、選挙制度の議論により幅を持たせる機会ともなり、また複選反対派の懸念した様に、国政が地方政治にリンクされ、逆に政党の強化にも結びついたかもしれない。ある程度、非民主的要素が強い方が、かえって民主的要求が強くなるというパラドクスがここにみられたかもしれない。まぁ、与太話ですけど。

結局のところ、成立した選挙法は、小選挙区で一部2名の連記制の直接選挙というところに収まったわけだが、この論文が書かれた頃(昭和17,18年)では、何故このような制度で決まったかの詳細のところは分からなかったらしい。そして、現在の不勉強な私も知らない。私としては、普選の議論などは、それほど関心はなく、小選挙区か比例代表制かを選択する理屈を知りたいところであるので、明治22年選挙法の立案者金子堅太郎について、調べなければなるまい。

小選挙区は農村有利で、初期議会の地租増徴反対に懲りた政府が、大選挙区に転換したことからもわかるように、政府としては最初の選挙法は失敗だったのだ。であるのにもかかわらず、何故小選挙区制を選択したのか、その論理を知りたいところである。

これは、農村地盤の自由党系が小選挙区、都市地盤の改進党系が比例代表を主張という後の議論の出発点である。当時の政論家が民意を調達と、政治秩序の安定とのバランスをとりながら考え出した選挙制度の理論を考察する道筋が少し見えたかなぁ、という論文だったか、な。

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