2008年2月19日 (火)

CG映画と漫画

CGアニメ映画ってのがありますが、あれはどうなんでしょう。BOOM BOOM SATELLITESの曲が使われているということで、曽利文彦監督『ベクシル 2077年日本鎖国』を観てみた。

結論からいうと、つまらなかった。何故つまらないかといえば、まずやはりあのCG画がダメだろう。質感のない風体と不自然な動き、そして誰が描いても同じような顔になってしまうキャラクター。どこにでもあるような演出、セリフ。一企業いや一個人の野心による世界危機というSFにありがちなストーリー。まるで無個性をめざしたかのような作品。これが果たして最新作といえるのかと目を疑ってしまう。

しかし、何故CGにしたがるのだろう。米国のアニメ市場がCG化していくのは何となく分かる。あちらのコミック・アニメは子供と動物は記号化しているが、大人の人間はあくまで人間のかたちをしており、写実的なのであるから立体的に表現できるCGが好まれるのは、当然であるといえるが、日本の漫画文化は、人間を記号的に描くことに特徴があるのだし、読者もそれを受容している。だから、CGが導入される時代に入っても、日本のアニメ市場は二次元のままだ。そして、その二次元の画でこそ、作者のオリジナリティが発揮できている。米国のコミック文化は、もともと作家のオリジナリティはなく、企業として、チームとして作品を生み出すことになっているから、個々のキャラクターには個性があるが、全体として眺めた時に、みな同じ雰囲気を持っている。

そうした中で本作をみると、作画の単調さにあわせるかのような、演出・セリフ・ストーリーの単調さ、無個性が現れてきてしまう。そもそも私がSFを楽しめないタイプであることにあるのかと思われるが、面白く感じない。笑いもないし。『ピンポン』をつくった監督が一体何をしたいんだろうか。

浅野いにお『おやすみプンプン』の第2巻を読んだ。この作品、一部で人気あるようですね。新宿のTOWER RECORDで「おやすみプンプン入荷しました」というポップを先月見つけて、こういう層に人気があるのかと、分かるような驚くような気がしたが。前巻にくらべて、異常な印象が足らないのは、慣れたせいかと思うが、そこに目を奪われない分、現実的にありうべき日常を過剰な演出で描いている青春漫画の雰囲気を感じ取れるようになった。ストーリーは小学生篇から中学生篇へと移行し、章替えのところでプンプンが人間の形で描かれるのかと思わせる演出をしながら、そのままという作者の意地をみた感じがする。

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2008年2月15日 (金)

邦画2本・漫画1冊

新作レンタルを2本観た。

1本目は、『キサラギ』。監督は佐藤祐市、脚本は古沢良太、出演は小栗旬、ユースケ・サンタマリア、小出恵介、塚地武雅、香川照之。

謎の自殺を遂げたD級アイドル如月ミキ1周忌にファンサイトで出会った5人の男を描いた密室劇。密室劇って、映画でやる必要が、また映画館で観る必要があるんだろうか、とか思いつつ、きっと面白かろうとレンタルを待っていた。観てみてやはりハズレではなかった。次々に現れる登場人物と、彼らの正体、徐々に明らかにされる事件の真相、そして最後にやっと顔を見ることのできる如月ミキ。最後まで飽きさせない演出が効いているが、別に映画としてそれほどすぐれているわけでもないし、三谷幸喜とかが苦手な人には向かないだろう。でも、面白い。気楽に観られる映画。

2本目は、『スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ』。監督は三池崇史、脚本は三池とNAKA雅MURA、出演は伊藤英明、佐藤浩市、伊勢谷友介、安藤政信、石橋貴明、木村佳乃、香川照之、クエンティン・タランティーノ、桃井かおりなど。

壇ノ浦の戦いから、数百年後、源氏も平氏も落ちぶれて、ギャングに成り下がっている時代に、平氏の財宝の眠る村で両者の争いがおき、そこに凄腕ガンマンが現れる。これも観たかったが機会を逃しました。話としては以上のとおりであるが、裏ストーリーとしては、タランティーノ『キル・ビル』のビルと主人公の関係が別で子供も生きていたら、というような仕掛けがあるように思える。タランティーノは「ビリンゴ」だし、桃井かおりはアレだしね。しかし、映画としてはむちゃくちゃで、最後の桃井の活躍をみるとそれまでの悲劇は何故起きたのか、よく分からなくなるし。でも、いいのです。むちゃくちゃなのが、いい。石橋貴明は、どうみても芸人にしかみえず、俳優としてのキャリアが長いのに違和感があるが、他の役者はいい演技している。香川照之は、『キサラギ』でもそうだけど、いい役者だなぁ、『渡る世間は鬼ばかり』に出ていた時は精彩を欠いた人だったのに。安藤政信の凋落ぶりにやはり『RED SHADOW 赤影』は大きな作品だったのだな、と思わせる。最高なのが、清盛(ヘンリー)役の佐藤浩市だね。この人が出てきただけで笑える。これも気楽に観られる映画です。

漫画は、『Y十M 柳生忍法帖』第9巻。山田風太郎『柳生忍法帖』を忠実に再現している恐るべき作品で、結末を知っている身にとっては、ちゃんとやってんだなと確認するような感じで読んでいる。ストーリーは、芦名銅伯と南光坊天海が双子で、二人の生死が一蓮托生だと知って、銅伯を倒すことに絶望した沢庵が降伏するが、柳生十兵衛が「徳川家も滅んで結構」と啖呵をきる場面。ずんずん進んで、はやく次回作であろう『魔界転生』が読みたいなぁ。

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2008年2月 9日 (土)

『仁義なき戦い』1~5、1973~74

ついに最後まで観た。いや凄かった。街中で平然と行われる凶行、主要キャラが次々と死んでいくストーリー、そして、山守義雄の卑劣な陰謀。

菅原文太は、一人仁義に熱い、傍観者だったなぁ。北大路欣也、いつも主役級で死んだり、瀕死の重傷を負ったり、やくざの英雄像を演じてたなぁ。松方弘樹、親分になったり、キレたヒットマンになったり、いつも死んでたなぁ。梅宮辰夫は、当時『ポルノの帝王』だったのに、いつも文太の兄貴分だったなぁ。山城新伍、お調子者の単細胞だったなぁ。小林旭は、インテリやくざだったなぁ。渡瀬恒彦は、一人で青春映画を演じてたなぁ。成田三樹夫は、渋いカッコイイやくざだったけど、大物との抗争を予感すると逃げ出してたなぁ。田中邦衛は、小心者の小悪党で、こいつは死なないと思ってたのに殺られちゃったなぁ。千葉真一は、どうみても千葉真一に見えなくて、探偵物語だったなぁ。川谷拓三は、小物で、自分の女を人に抱かせて「男」になろうとするセコイ奴だったなぁ。梶芽衣子は、抜群に美しかったなぁ。丹波哲郎は、ほとんどセリフなくて、「丹波哲郎」というだけで大物やくざだったなぁ。室田日出男は、印象に薄い殺され役だったり、カメレオンのような奴だったりしたなぁ。加藤武は、いかにも口先だけの小悪党で指まで詰めされて哀れだったなぁ。宍戸錠は、千葉の大友と似ても似つかなかったけど、いつもの千葉の演技のモノマネだったなぁ。金子信雄は、「おとうちゃんは、お前の好きな金の玉を二つもっちょる」外道だったなぁ。

しかし、これだけの豪華出演陣。凄すぎる。もはや物故者もかなりおられるが、今では時代劇でしか、お目にかかれない重厚な布陣。しかも、一人も美男がいないのにカッコよく見えてしまう不思議な演出。しかも、実録ということで、事実を元にしているところが驚き。昭和30年代を「神話」にしようとする傾向から真っ向対立する地獄絵図。これらを作品として完成させる深作欣二の暴力演出と、やくざに憧れを覚えさせない陰謀渦巻く群像劇を名台詞をちりばめて表現した脚本、違う人物を同じ役者が演じても違和感を抱かせない演技、そして裏の主人公金子信雄演じる山守義雄の強烈な個性と「金と女と権力への執着は尽きることのない」外道さにあるといえよう。

「観たことがないなら早く観たほうがいいぜ、俺の血はそいつでできてる」

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2008年2月 6日 (水)

『天然コケッコー』2007年

昨年の邦画の中では『それでもボクはやってない』に次いで評価が高かったらしい作品ということでDVDを借りて観てみた。

ストーリーは、小学生3人、中学生3人という廃校寸前の村の学校に東京から中学2年の少年・広海が転校してきて、同学年のそよとの恋を描いたものだ。ストーリー自体は、この通り単純そのものだが、その背景にある人間模様が面白い。そよの父親と広海の母は、かつて恋人同士であったが、彼女が二股をかけていたということで憎み、そよと広海との交際を認めようとしないが、一方で二人の中はなにやら怪しい。若者が、ほとんどいない閉鎖的な村のため、人間関係が濃密で、そこからはみ出すと孤独を感じざるを得ないし、高卒で郵便局員をしているらしい青年が中二のそよに恋心を抱いていたりするのも、都会なら異常事態だが、人間の少ない村なら自然な感情で周囲も容認している。

面白かったのが、そよたち全員で、海に行くシーンで、徒歩で行く範囲だから近くにあるのだろうと思わせるのだが、異常に長い時間を映画の中で費やしている。町の天満屋に買い物に行くのは場面転換だけなのに、海に行くのは長い。海でのシーンは、ほとんどなく海への道だけが、やたらと長いのだ。人間関係が狭く、大きな村ではなかろうに、徒歩圏の海の遠さは異常だ。村の自然の美しさを見せるためなのか、そよたちの村の比重の重さ、離れがたさを描いているのかは分からないが、そこでの場面が、そよの村への愛着と、村の仲間と異分子である広海が加わることによる人間関係やそよの感情の変化をあたえるシーンとなっていることは確かだろう。

それはともかく、音楽はレイ・ハラカミ、エンディングテーマがくるりという組み合わせが、また良いので、面白く観させてもらった。

今日の一枚

syrup16g『syrup16g』。syrup最後のアルバムで、syrupの中でもっとも聴きやすいアルバム。全体的に、シンプルなジャケット、歌詞カード、終末を予感させる曲が並ぶ、まさに解散アルバムに相応しい作品だが、無頼者の心象や行為を描いてきた初期作にくらべると、これだッ!と思わせる曲はないようにも思えるが、私は「さくら」の美しさに涙ぐむ。

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2008年1月20日 (日)

兵隊やくざ・大脱走

『ヘルシング』のあとがきで、なぜかフィーチャリングされている「山守義雄」。この存在を確かめたくて、ツタヤにて『仁義なき戦い』を借りてきて、期待に胸高まらせて中身を見ると「ん?」。ナント!なぜか私が借りてきたのは『兵隊やくざ・大脱走』ではないかッ!

どうやらツタヤの店員が返却物を元に戻す際に、下の段の『仁義なき戦い』のパッケージに入れてしまったか、客が「やっぱやーめた」と戻す際に入れ間違えたのか、嫌がらせで入れ替えたのか、ということがあったらしい。私は中身を確認せずに借りてきてしまったがために、こんな大失敗をやらかしてしまったようである。しかし、観たことのない有名作品だ。観ておくことは無駄ではあるまい、と観てみたが、けっこうあたりでした。面白い。

舞台は終戦間近の満州。関東軍に属する大宮二等兵演じるのが勝新太郎。彼の上官で戦友は田村高廣演じる有田上等兵。大宮はやくざ上がりの兵隊で文字は読めぬがめっぽう強い。そんな二人を軸にする戦場コメディである。

この作品を観て驚くのが、まず勝新である。私にとって彼は中村玉緒の亡き夫で、パンツに何やらを隠していた人物である。その勝新の若かりし日の容貌はケンドーコバヤシそっくりなのである。一度、そう思ったら最後までケンコバにしか見えない。というよりケンコバの過剰な自己演出の元ネタは勝新なのではないかと、勝手に納得してしまった。

で、作品を観ていくと本作は二部構成で前半は、玉砕間近の隊にやってきた慰問団の親娘との交流であるが、「こんなところで女が抱けるとは」と喜ぶケンコバではなく大宮を「あれは慰安婦ではない」と諭したり、例によって安田道代演じる可愛らしい娘を将校たちが「国へのご奉公に」差し出すよう父親に迫るところで、父親が「あの子は慰安婦ではありません」と一度は断るシーンがある。この作品は1966年公開作であるが、「慰安婦」の存在は当然のように認められているんですね。これは観ている側も共通の了解ごととしているのだろう。まさか30年後に「隠された恥部」として政治問題化されるとは、誰も思っていなかったのだろう。

そして、面白いのが大宮は娘を助けて、うまいように関係を持ち、隊長のはからいで汽車まで送る役目を任じられた際、娘は必死になって「一緒に日本に帰りましょう」と訴えるが、彼は「仲間を棄てていけない」とつっぱり、次の隊でも旧知の元憲兵に逃げるように持ちかけられるが、断っている。映画公開は終戦後20年。観客の中の多くは従軍経験者だろう。そんな中で逃亡兵は主人公の資格は失うだろう。今ならヒロイックではなくなるが、逃げ出しても観客の側からは特に反感を買わないだろうが、当時はそうではなかったんだろうなぁ。昔見た『きけ、わだつみの声』の主人公は、何故かタイムスリップして当時の人間と入れ替わってしまった人物であったため、執拗にもういいだろうと思うぐらい碇シンジ君のように戦争から逃げていたが、大違いである。もっともこの主人公は「現代」の人なので当然だろうが。なお、この作品は1995年の作品であったため、慰安所シーンが描かれていたり、現地の女性を将校が連行して慰み者にしようとしたり、と世相を反映していたのが、高校生の私にもなんだかなぁと思わせた作品ではあった。映画自体もつまんなかったけど。

それはともかく意外なハプニングではあったが、面白い作品に出会えてよかった。もっとも、返す際には文句を垂れて無料券もらったけど。

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2007年12月 7日 (金)

映画『魔界転生』

この間、「観てみたい、でも観たら確実に後悔する」と思いつつ、ついに観てしまった。しかも深作欣二版と平山秀幸版と両方。で、感想はガッカリ。

だいたい映画というものは、原作を読んでからの方が期待は高まるものの、観て原作とここが違うとか気になってしまうし、そもそも原作が面白いものの映像化は原作を超えることができない。原作を読む気がある作品は、映画から入って原作に進むのが作法だ。

で、深作版は、クエンティン・タランティーノに多大な影響を与えたというB級映画の傑作と呼ばれるものだが、正直きついです。映画の始まりからいきなり「能」とかやっちゃうあたりどうにかならないだろうか。日本映画で日本の雰囲気を出そうとしたり、芸術性を高めるためとかの理由で「能」とかやるのがよくあるが、勘弁願いたい。私の勝手な図式で、伝統芸能の階層関係は、武士=能、富裕な庶民=歌舞伎、庶民=浄瑠璃となっているのだが、映画は大衆芸術の一つなのだから、変に芸術性を求めるために伝統芸能の、しかも「能」なんてやる必要がないと思ってしまう。映画の中の芸術性は、あくまで映像の中で表現するもので既存の芸術に依存して表現することはない。いきなり高尚な「能」で始まっては、こっちは眠気に誘われるだけだ。しかも、ストーリーもなんだかよく分からない。おそらく「柳生一族」シリーズや時代小説ファンなら、分かるのかもしれないが、山田風太郎でしか十兵衛を知らないこちらとしては、十兵衛が何でそこら辺でウロウロしているのかが分からないし、事件に巻き込まれる動機もなんだかよく分からない。とにかく、原作をほとんど無視したオリジナル作品で、『魔界転生』なんて題さずに別の題名を立てて「原案」ぐらいにしてほしい。だいたい風太郎先生の柳生十兵衛は、快活で自由で怠惰な男である。千葉十兵衛は重すぎるんだよな。何度も寝てしまった。

平山版は、深作版では呪文を唱えるだけで死者が復活するという形式だったが、さすがに映像技術の発達で「忍法魔界転生」を映像で見せてしまうあたりが凄い。ストーリーも深作版を引き継いで天草四郎の復讐譚としているが、できるだけ原作に近づけようとしている。しかし、演出がどうもね。天草方の女忍者(麻生久美子)の演技がまるで戦隊モノの悪役のような陳腐なそれだし、宝蔵院胤舜と戦う場面など明らかに十兵衛以外では適わないであろうことは、荒木又右衛門戦で分かっているはずなのに、十兵衛主従で取り囲んで、案の定弟子たちはあっけなくやられ、十兵衛との一騎打ちで勝敗を決する。十兵衛だったら「お前たちでは適わない、引いていろ」ぐらいはいいそうなものなのに、全員でかかろうとするヒーローらしからぬ十兵衛。。。原作での弟子たちの死は、それぞれにやむをえない状況で死なねばならないという演出が施されている。これはダメである。さらにもっともいただけないのは、宮本武蔵役の長塚京三だ。これは確実にミスキャストで歴代武蔵の最悪の配役ではなかろうか。別に長塚が悪いのではない。選んだ方が悪いのだ。これもつまらなさで眠気を誘う。

まぁ、結局のところ、娯楽映画なんてキャストでナンボだ。どうせだったら、現在の大河ドラマ『風林火山』のキャストでやってみたら?という感じだ。私の案ではこんな感じ。

十兵衛:内野聖陽、天草四郎:Gackt、武蔵:緒形拳(深作版に引続き。ホントは山崎努がいい)、宝蔵院胤舜:市川亀治郎、荒木又右衛門:松井誠、柳生宗矩:仲代達矢、柳生如雲斎:千葉真一、田宮坊太郎:高橋和也(ホントはもっと若手がいい)、徳川頼宣:谷原章介、牧野兵庫頭:佐々木蔵之介、お品:柴本幸、お縫:水川あさみ、おひろ:池脇千鶴、お雛:貫地谷しほり、木村助九郎:西岡徳馬、田宮平兵衛:竜雷太、関口柔心:加藤武、由比正雪:田辺誠一、森宗意軒:佐藤慶(ホントは鈴木清順とかがいい)、松平信綱:伊武雅刀(ホントは津川雅彦とかがいい)

とかね。女優陣には不満が残るが。

でも原作に忠実にやろうとすると、技術的によりも映倫的に不可能だろうが、亀治郎なら7日に一度夢精するという胤舜を見事に演じられるだろう。もっとも風太郎先生の作品は実写化すると陳腐になるので、なんでも可能な漫画やアニメになった方がファンは喜ぶだろう。(以上、敬称略)

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2007年6月19日 (火)

映画『太陽』

昨年、日本公開され話題になったアレクサンドル・ソクーロフ監督、イッセー尾形主演の『太陽』をDVDで観てみた。

内容は、戦争末期からいわゆる「人間宣言」までの昭和天皇の「現人神」として生きることを課せられた苦悩とそこからの解放を美しい映像とユーモラスなタッチで描いたものである。そのため、内外で芸術的作品としての評価が高かったようだ。

しかし、観た印象としてはあんまり面白くなかった、というのが正直なところ。テーマが上記のようなものであるため、昭和天皇をできるだけ普通の人として、いやそれより劣る子供のような人物として描写されており、「現人神」としての天皇から家庭人としての天皇への解放を描こうとしているが、それが果たして成功していたかも疑問である。

ここで描かれる昭和天皇はかなり戦後のメディアに現れる「あ、そう」のおじいさんを強調した戯画であり、天皇そのものよりもイッセー尾形の一人芝居の人物が天皇を演じているに過ぎないように思えるほど、滑稽な人物である。このような人物が、大日本帝国を率い、戦後は平和主義者に難なく転換してみせるしたたかな政治的演技をこなせたとは思えない。このような人物が世界を相手にする大戦争をやらかすとは思えず、戦前は傀儡として使われていたに過ぎないという政治的意図があったように思えてくる。私は今現在において昭和天皇の戦争責任を問うというようなあまり意味のあることとは思えないことに加担する趣味はないが、追及派が言うように単なる傀儡では昭和天皇本人に失礼ではないかというような意識はある。

史実との関係では、マッカーサーとの会談で、米軍に連行されるようなかたちで会いに行くと言うのもありえないし、会談でもマッカーサーが車止めまで見送ったというエピソードもなく子供扱いなだけである。たしかにここで描かれるような家族の話ばかりする人物ならば、彼が天皇に敬愛の念を持つことはなかったであろう。このような子供ならば、占領政策に必要だったとはいえ、マッカーサーが天皇を友人として遇する事もなかっただろうし、どうせ子供なら退位させて皇太子を新天皇に擁立した方がましである。他にもいくつも史実との違いはあるが、海外から見るとこんなものなのだろうか。

そもそも昭和天皇は「現人神」であることに重荷を感じてはいても、君主であることの意識は戦後まで持ち続け、占領外交ではそれなりの役割を果たしていたことが明らかにされている。この映画の天皇は君主としてのそれも放棄しているような人物である。「神」からの解放と戦後の日米関係が父子関係の表象として描く必要からこのような人物に造形されたことは想像に難くないが、現実の戦前・戦後の連続性を描くには物足らない出来である。

どうも海外で日本人が比較的好意的に描かれるとそれを評価したい気分が世の中にあるようだが、作品としてみても、これはつまらないと考えていいし、昭和天皇を描いてる映画でもないなぁ、と思ってしまった次第である。

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2007年6月13日 (水)

映画『プレステージ』

クリストファー・ノーラン監督の最新作『プレステージ』。

本作の劇場初日プレゼントは、私の大ファンの荒木飛呂彦先生のイラスト付ステッカー!!これは観に行くしかないであろう。というわけで先週土曜日の公開初日に映画館に出向いたのだが、ステッカーは前回分で配布終了。ガッカリです。夜型の生活を変えなきゃなぁ。。

で、作品の方は、ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール扮する奇術にとりつかれたマジシャン2人の執念の闘いを描いた人間ドラマで、これでもかというほどの嫌がらせを双方やりあうという内容である。クリストファー・ノーランといえば、やはり『メメント』という観る者を「??」に追い込み最後に「あーあー」とさせるトリックが印象的な傑作を撮った監督であり、今作もそれが売りである。途中でかなりの伏線が張られており、「まさかねぇ」と思いつつ、最後まで観てると「ホントかよ!?」という楽しみがある。DVDで観ていたら、もう一度観てしまうだけの面白さがあったと思う。

物語のキーを握る男にデイビッド・ボウイ演じるニコラ・テスラ。荒木ファンなら名作短編集『変人奇人列伝』(集英社、2004年)の「エジソンを震えあがらせた大天才ニコラ・テスラ」でその奇人ぶりをよく知られているだろうが、世間的にはエジソンの直流電流に対抗して交流電流を発明して現在の生活を享受させてくれた大発明家として著名である。本作でもその奇人をボウイが妙な存在感で演じており、荒木原作の漫画で描かれているエジソンの執拗なイジメの一端を垣間見ることができる。

本作のCMでMr.マリックを起用したりなど、マジシャンを描いた映画という風に取られる向きもあろうが、映画で手品などやっても何の驚きもないわけだから、人間ドラマと割り切って観た方が良い。傑作とはいえないけれど、それなりに楽しめる映画だった。しかし、ヒロインのスカーレット・ヨハンソンの存在感がイマイチだったな。

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