2008年12月11日 (木)

猪瀬直樹『黒船の世紀』文春文庫、1998年

近年では、道路公団民営化推進委員として行政改革にあたったり、現在では東京都副知事となり、ポスト石原の最有力候補とまでなった著者だが、出発点は明治大学の大学院で橋川文三に日本政治思想史の指導を受けた人物であり、日本近代史をテーマに扱ったノンフィクション作家であった。

本書は、その恩師である橋川がユーラシア大陸を挟んでの人種戦争の問題を精神史的に追った作品『黄禍物語』に対応するように、太平洋を挟んだ人種戦争の言説をフォローした精神史となっている。水野広徳とバイウォーターという元軍人であったりスパイ経験のあるジャーナリストの軍事知識に裏打ちされたリアルな日米未来戦記と、池崎忠孝とホーマー・リーという屈折した秀才の世間的名声を得るために大衆を煽動するようなそれとの二大潮流があり、後者が勝利を得ていく大衆消費社会のゆがみを描いてくれる。「軍人が国民を引きずったのも事実だが、世論のほうも軍人の思惑を越えて戦争を呼び込んでいたのである」という一文は、正統的な歴史叙述からは脱落してしまうところを拾い上げている。

こういう社会史的な側面とは、歴史教科書に載りにくいので30年も経つと忘れられる。本書で述べられる1908年(明治41年)の米国大西洋艦隊の周航で日本に来日した際の日本の歓迎振りは、ニコライ遭難時の半狂乱したような自粛ムードと同様に恐怖の裏返しだったという。歴史研究者の目で見れば、政府も新聞も「歓迎一色」であり、それを米国に対する恐怖と取ることはできないらしい。しかし、このいじらしいほどの歓迎振りは恐怖の裏返しと見た方が正しいような気がする。もちろん、政府当局者は諸外国で見られる日米戦争必至論を打ち消すためとの演出であろうが、それも恐怖の裏返しともとれる。その直後に、英国を仮想敵国とした連合艦隊大演習が行われている事実が物語っている。ある意味、北京オリンピックの聖火リレーで反対運動が巻き起こった今年の状況というのは、歓迎一色よりも健全な日中関係の裏返しだったのかもしれない。

本書は、水野広徳、ホーマー・リー、バイウォーター、池崎忠孝の評伝として読んでも面白い。水野が第一次大戦をイギリスにて間近に見たことで反戦平和主義者になったというエピソードは面白いし(軍拡主義者であった時の『此一戦』の描写でも十分に反戦の著作になりえる)、芥川龍之介への対抗意識から抜け出せなかった池崎の滑稽さも興味深い。文体を変えれば、博士論文にもなり得た本作にて、猪瀬氏への認識を変えたが、お忙しい現在の氏にはもうこれ以上のものは書けないんだな、と思うとさびしい。

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2008年11月28日 (金)

松田宏一郎『陸羯南』ミネルヴァ書房、2008年

本年度サントリー学芸賞政治・経済部門を『江戸の知識から明治の政治へ』で受賞した著者の初の一般読者向けの新刊。

本書の特徴は、膨大な資料を踏まえた事実の叙述と分厚い研究史の蓄積を踏まえた隙のない論述により、羯南の生い立ちから、明治20年代のジャーナリズム勃興時代の立ち位置や従来、他の言論人や政治勢力から超然とした言論活動をしていたと思われていた羯南の政界人脈を明らかにして、明治政治史・社会史の中の羯南像を提示してくれている。、また、もちろん著者専門の思想史研究から羯南が学んだ西欧の文献を渉猟して、その知の基盤を探り、羯南自身の著作への鋭い分析をみせてくれる。その上、引用文を大胆に「現代文(に近い文体)」に変えることによって、引用文の挿入により地の文との文体の違いから読書のリズムを崩してしまうというような思想史の著作を読む際に感じる精神的負荷から解放してくれている。これにより、一般の読者にも最前線の政治史、社会史、思想史の研究を踏まえた陸羯南への接近を可能にしてくれている。私なんぞも、最初は「あれ、羯南ってこんなに分かりやすかったっけ??」と思ってしまったが、すいすい読めてしまう。

あとがきにも書いてあるが、著者は20余年前に陸羯南をテーマに博士論文を書いている。著者が羯南に惹かれたのは、「思想」というものの魅力がうせ、知識人の役割が「思想抜きの歴史」「思想抜きの政治」「思想抜きの事実」や思想を生々しい「政治的な思想抜きの思想」の紹介者として転換した70,80年代に、明治20年代の羯南が「自由平等の義、改進保守の異、抽象的の説を以て政論の基礎」とする「批評の時代」から「経済当否の理、法律利害の点、現実的の議」という「適用の時代」が到来したと述べていることに同時代性を感じたのではないか、と私は勝手に考えていた。本書を読んでも、その印象は変わらず、羯南の着実な現実志向の言論活動に対して好意的な論評を与えているように思える。

しかし、一方で羯南の政治思想の部分、丸山眞男「陸羯南―人と思想」(1947年)で評価されたような「健康なナショナリズムの論理」というものには、著者は懐疑的で批判の目を向ける。著者は羯南の「「国民主義」の主張は、一見深遠な教義があるかのような素振りを見せることによって、共同的共感の名の下に、政治的判断の矛盾や虚偽を覆い隠すナショナリズム一般の危険な性格を内包していた」(114頁)と述べ、「「国民主義」とは価値の内実を問うことではなく、「自負」を持とうとする意欲自体が価値である」という「空疎としかいいようのない精神主義以外に「国民主義」の中身はない」(116頁)と断じている。

参考文献に挙げられている著者の過去の羯南研究でここまで明確に羯南の「国民主義」批判を明確にしていたということはなかったと思う。それよりもイデオロギー闘争的な政治社会の場から、それから独立した政治言語を操る場をつくる装置として「国民主義」を評価する手続きを取っていたんだと記憶している(間違ってるかもしれないけど)。たぶん未発表の研究の部分で、そこのところを検討して羯南に失望したのかもしれない。その後の研究論文を集めた『江戸の知識~』では索引に「陸羯南」がないぐらいだし。

そして、著者が思ったかどうかは分からないが「適用の時代」と思われた90年代は、それ以前にもまして、政治的布置があらかじめ配置された「主義」による批判の応酬の近代史ブームがおき(参照)、また羯南の時代も議会の発足や東アジア情勢から似たような状況になっている。「そっち系」の雑誌の見出しには「21世紀の東アジア情勢は日清戦争前の状況」というようなのをたまに見かけるが、どちらの時代も本書が描いているように知の大衆化により、過激な言論が喜ばれ、冷静な議論をするジャーナリズムは下降していく。羯南の見通しは外れてしまい、その政論家としてのプライドのため、『日本』の経営が立ち行かなくなる。

そうした状況を見かねてか、著者は羯南のナショナリズム論を批判するついでに現在のそれをも皮肉をこめて言及しているのが、面白い。しかし、「これは危険な兆候だ!」的に言及していたら、著者も同じ過ちを犯してしまうのでそうはいかず、そうした言論に冷ややかな雰囲気を残しているところに著者の意気を感じます。しかし、過激な近代史ブームも下火になった現在に本書が出てよかったなぁ、とも思う。もし本書が近代史ブームがまだ余燼をくすぶっていた2000年前後に出ていたら、「そっち系」の反対の「あっち系」からの寄稿のオファーが舞い込む可能性があり、著者も困惑していただろう。

それはともかく、著者の述べる羯南の面目は「冷静とも言える一種の政治メディア批判の傾向」である。その真骨頂は、本書を読んでいただいて、各人で確かめてほしい。さまざまな政治勢力と言論が飛び交う分かりにくい明治20年代を理解するのにお奨めの作品です。

余談だが、14頁の司法省学校時代の写真の羯南は、本当に後年の紳士顔した羯南と同一人物なんだろうか。あまりのBad Boyな風貌に、こりゃ友達になれません、と思いました。。

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2008年11月26日 (水)

沢木耕太郎『テロルの決算』文春文庫、2008年

私は、本書においてもやはり自分が誤解していたことを気づかされた。

それは浅沼稲次郎への認識だ。

戦前左翼であったが弾圧されると右翼的な組織を作り、戦後左翼的風潮になると恥ずかしくもなく、また左翼に走り便乗した日和見主義者

これは1960年10月12日に日比谷公会堂で浅沼を刺殺した山口二矢の浅沼観だという。私もそれほど変わることのない浅沼観を持っていた。社会大衆党の代議士として1938年には国家総動員法の賛成演説をし、1940年の斎藤隆夫除名問題では除名に賛成し、これを契機に作られた聖戦貫徹議員連盟の常任幹事となった。そして1942年の翼賛選挙では非公認の立候補を取り下げている。戦後は社会党結成に尽力し、1959年3月12日に中国で「米帝国主義は日中共同の敵」と発言し、「中共」のご機嫌をとり、それに憤激した右翼少年に殺された。その場面は、初めて人が殺される場面を写真に写し、またTVフィルムとしても残っているものである、というのが私の浅沼観で、正直あまり評価できる人物ではなかった。不幸な死に方をしたから、ある種の神格化が行われただけだろう、と思っていた。

しかし、著者も山口の認識について述べるように、「ある意味哀しすぎるほど哀しい浅沼の一生」の「一端」に過ぎなかった。本書は山口二矢の評伝ノンフィクション作品として流通しているが、著者自身も述べるように山口という夭折者と浅沼という老政治家二人の物語であり、山口が中野坂上から新宿経由で小田急線をつかって玉川学園に通ったというところに、小田急線沿線在住でバイト先が中野坂上近辺という奇妙な一致に驚いたものの、私には浅沼伝としての興味を覚えた。

もっとも哀しいところは昭和17年の翼賛選挙を前にして「発狂」したところだろう。浅沼は左翼活動家だった早稲田在学時に相撲部という体育会系に属しながら左翼運動をしたため右翼色の強い体育会系にとって近親憎悪の対象である事件をきっかけに凄惨なリンチを加えられる。また関東大震災の時もあわや銃殺というところまでの危機に陥っているが、その志を変えることはなかった。その後、正式の政党に属し代議士として活動し始めると尊敬してやまない麻生久の軍に協力することを通しての社会主義政権樹立という戦略に献身して親軍的政治行動を行う。しかし、目指したものとは全く異なる大政翼賛会の成立に失望した麻生が死んでしまうと今までの自分の行動に自信を持てなくなってリンチ、検束、入獄という恐ろしさばかりが思い出され、巨体を震わせ「縛りにくる、縛りにくる!」と精神に変調をきたした。それまではどのような暴力に会おうと「志」という存在基盤があったことで恐怖に打ち勝つことができたが、それを失い空虚な巨体しか残っていない生の浅沼が現れている。

この「発狂」が後に中国への贖罪意識へとつながり、「日中共同の敵」という社会党左派をも驚かせる発言になったという。そしてこの発言が自らの命をも失う契機となったのだ。

ここで描かれる浅沼は本当に哀しい人物だ。庶子として生まれ、母の元を離れると家族の愛情にも恵まれず、左翼運動に入り込んでも難しい理論は分からずその巨体もあいまって浮いた存在でありながらもただ居続けた。その愚直な姿勢で頭角を現すが、戦中戦後の「日和見」な姿はまさに庶民そのものだった。

私のような浅沼認識の方はけっこう多いと思う。本書を山口二矢伝としてではなく、浅沼稲次郎伝としてお奨めする。

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2008年11月25日 (火)

沢木耕太郎『危機の宰相』文春文庫、2008年

いろいろと誤解していて、本書を読む機会を逃していた。本書の原型が『文藝春秋』に掲載された1977年は、生まれていないので、読むことはできないし、存在すらも知らないのは当然として、2006年にやっと単行本化された際、ずいぶんと話題になったが、読まなかった。

なぜなら「沢木耕太郎」って、書店で『深夜特急』を見かけて、かってに「西村京太郎」みたいな列車を舞台にしたミステリー作家だと思い込んでいて、それを読む気になれなかったという恥ずかしい勘違いが一点。あと、本書の主人公・池田勇人って、「貧乏人は麦を食え」で「中小企業はつぶれてもいい」という「ディス・インテリ」ないけ好かない奴だったが、首相になった際は、「低姿勢」「寛容と忍耐」というスタイルを通し、岸信介内閣時に既に策定されていた「経済成長戦略」を取り入れて、うまい具合に高度成長期の首相だった人でしょ、と勝手に思い込んでいて、魅力を感じなかった、という点がある。しかも『危機の宰相』っていうタイトルがどうも池田勇人と結びつかなかったところに違和感を感じたのだ。「危機の宰相」といったら、在任中に難しい判断を迫られるような事件があって、それへの対処にリーダーシップを発揮するようなイメージがあって、それが池田勇人というにふさわしくないとの感があったのだ。

しかし、本書を読むと池田勇人という人物は、苦労人で自覚的に「経済成長戦略」を取り入れた人物であることが分かり、彼と同様に大蔵省というエリート集団に属しながらも病気や挫折を味わった盟友やブレーンに支えられた魅力ある人物だということが分かる。そして、保守政治最大の危機であった安保闘争を受けての首相就任であり、また今まで気がつかなかったが、池田政権時、浅沼稲次郎刺殺事件(1960年10月12日)、嶋中邸襲撃事件(1961年2月1日)、ライシャワー刺傷事件(1964年3月24日)という10代の少年によるテロ事件も起きている。現在でも陰惨な事件が起こると1930年代のようだという感想がもらされるが、この時は時間的にも政治的にもその比ではない危機があったといえるだろう。しかし、それを帳消しにできるほど、池田は人心を安心させ、豊かにすることを可能にした。まさに「危機の宰相」だったのだろう。

また興味深いのが、池田とマスコミとの関係である。上記に挙げた「中小企業は~」とかの発言は新聞記者に嫌われていた池田へのネガティブキャンペーンの一環として「はめた」という側面があったらしい。しかし、その後、池田の人柄を理解するようになった記者たちは逆にゴーストライターをやるぐらいにまで池田人気があがったという。やはり政治家というものはマスコミ対応がうまくないとやっていけない商売なのだな、と思わせる。最近の安倍晋三氏や麻生太郎氏などは明らかにマスコミを眼の敵にしていたところがあり、そうした奴はいじめてやろうという気がおこるのも当然である。首相になる気があるのだったら、新聞記者との関係をもう少し考えた方がよかったのだろう。

あとは先ほど書いた岸内閣の「経済成長戦略」だが、これは池田周辺が唱えていた「所得二倍」のスローガンを福田赳夫が取り入れたためということらしく、しかもその内容は池田=下村治の考えていた民間主導の経済成長とは異なり、官主導の臭みを感じさせるもので表面は同じでも中身は異なるものだったらしい。やはり「所得二倍」を「所得倍増」へと導いた池田グループあっての「高度経済成長」だったのだ。しかもこの成長理論というのは当時のエコノミストの中では異端で、不可能と考えられていたし、成功すればしたらで「ひずみ」を問題にするという極めてゆがんだ言論空間だったようだ。もっとも万年危機の経済評論はいまでも健在だが、当時のそれはより深刻だったようだ。というのも資本主義の成功を喜ばないという雰囲気があったわけで、昔、『共同研究転向』の共同討議を読んでいて、出席者たちがこの経済成長時代を指して「いやな時代になったものだね」とうなずきあっているのを読んで唖然としたものである。そうした時代背景も本書は押さえている。

著者の「批判者たちの立論の変遷を辿っていくと、この国の「口舌の徒」に対する絶望感が襲ってくる」という指摘は現在にも十分あてはまり、噛み締めるべき言葉だな、と思わせる。

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2008年11月22日 (土)

萩原延壽『馬場辰猪 萩原延壽集1』朝日新聞社、2007年

アーネスト・サトウの生涯を追った『遠い崖』で著名な著者の最初の単行本で、吉野作造賞を受賞した記念すべき評伝作品。

初出は1966年6月号から同年12月号までの『中央公論』の連載で、すでに40年も昔の作品ということだが、文章の古さは特に感じることはなく、著者が石川淳に師事し安部公房を兄として敬愛していたことからもうかがえる文章の巧みさを感じる。

そもそも著者は岡義武に師事した日本近代政治史の研究者であったようだが、たしかに本書に見られるのは歴史的考察が主であるし、師匠の岡のようにエピソードによって語るというところがうまい。たとえば、有能な能吏であった祖父について「自伝」ではふれるものの、武芸には秀でていたが酒色におぼれ経済的才能もなく、どうやら女性関係で一時藩から「禁足」を受けるような父についての叙述はほとんどなく、それを反面教師として女性に対して当時の民権派の活動家とは異なり潔癖で、そのためかどうかは分からないが妹になにやら執着があったりというエピソードは単に「自伝」を読んでいただけでは分からない事情である。

また、上記のように文学的交流もみられたことから、馬場の心情に迫るという叙述が多く、歴史家の伝記というよりも作家のそれのようなおもむきがある。たとえば、二回目の英国留学から帰国するのを躊躇しているあたりの叙述で「観念としての民衆」と「事実としての民衆」の乖離が予測され、それに自分が耐えられるかどうかを自問している姿として、描くという手法は、その時の馬場に迫っているようにも感じるし、後の民権運動への絶望を暗示させていて、文が進むにつれて利いてくる、というような構成とか。

しかし、著者は「思想家」としての馬場を評価しているようだが、それについての考察はあまりない。もっとも詳しく述べられているのは加籐弘之との「人権新説論争」であるが、そこにしても馬場の発言を紹介し、それを元に加籐を批判するのみになってしまって、加籐の主張はもとより馬場の主張もあまり検討されていないのではないかと思えてしまう。それは馬場が「日本語で文章を書くのが不得手らしい」と噂されており、彼の日本語著作はほとんど講演筆記を印刷されたものであり、その印刷の過程で他人の手により修辞上の改変がなされていたので、文章から馬場の思想を正確に論じることの不可能さという事情もあったかもしれない。

たしかに講演を基にした『朝野新聞』連載の「読加籐弘之君人権新説」と慶應義塾出版社から公刊された『天賦人権論』には多少の変更があり、場合によっては全く意味が逆になってしまうような改変がなされているが、それが馬場の意思なのかどうかはわからないという事情を考えるとあまり突っ込んだ議論はしづらい。

しかし、加籐びいきの私からすれば、加籐を「藩閥政府のイデオローグ」というのはちょっとかわいそうで、客観的にはそうとしかいえないが、加籐本人としては「明治国家のイデオローグ」たらんとしてはいたが、「藩閥政府」のそれとは思っていなかっただろう。事実、20年代になると「藩閥政府」を専制政治の残滓として批判の目を向けているし、単に馬場も内心思っていたように民権運動家が頼りなく、この時期の「藩閥政府」の方がマシだと考えていたに過ぎないだろう。「転向」後も加籐の思惟傾向は丸山眞男が述べるように「自由と進歩と民権」であり「市民社会のイデオローグ(この場合の「市民社会」はブルジョワ社会の意味)」であり、労働者階級の政治への進出には警戒感を終始持ち続けたが、明治15年頃の士族民権・地主民権と求めるものとしてはそれほど変わらない(どちらかといえば、改進党的都市事業者民権に近いが)。加籐が警戒したのは、「天賦人権」の名の下に、無常の権力を与えられていると考えて何でもできてしまうと勘違いしてフランス革命にみられた「理性」の「暴政」が行われるのを恐怖しただけだ。「妄想」であろうと別にそこまで批判するほどでもなかろうという「天賦人権論」を加籐が否定する理由としてあげているのは、「暴政」への危険性である。

その辺で馬場はフランス革命の惨状は専制政府に原因があるので、ルソー的イデオロギーに原因を求めるのは本末転倒としていて、著者もそれに同意してしてしまっている。たしかにルソー的「天賦人権」にのみ原因を求める加籐の議論は粗雑だが、現在のフランス革命研究ではフランス王政が専制的であったから革命が起きたり、虐殺が行われたり、というものではなく、民衆の力を王が借りようとした過程でなし崩しに革命がおき、さらにイデオロギー的側面にかなり重点が置かれているように感じられるが、明治期のフランス革命に関する著作は基本的に専制政治の問題として片付けられていたんだろうか。また著者も1万人あまりが虐殺された革命というものの原因を単に専制政治のため、という馬場の言を本気で信じていたんだろうか。自由民権運動を論じる際、どうも民権派の主張に耳を傾けすぎるのは如何なものかな、と自由で民主的な社会を享受している私などはいつも考えてしまうのである。

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2008年11月18日 (火)

猪木正道『評伝吉田茂2獅子の巻』ちくま学芸文庫、1995年

猪木史観による吉田茂伝の第2巻。時期は田中義一内閣期の奉天総領事から広田弘毅内閣の組閣参謀をやって幻の外務大臣となったあたりまで。

2巻まで来て、まだ戦前篇とは驚くばかりだが、猪木氏の関心の持ちようがわかる。しかも、外交資料を多用して、当時の臨場感を与えてくれて、好きな人にはたまらないが、ちと読むにはつらい。

しかし、吉田の中国観みたいのが知れて興味深い。

「第一、欧州戦後、民族自決等一時人口に上れる戦争の反動的思想をそのままに余り多くわれの聴従し過ぎたること。

第二、日支親善、共存共栄等の空言にとらわれ過ぎたること。

第三、対支国家機関の不統一」

が対中政策の失敗の原因との指摘は、帝国主義国の外交官としての外交観を語るとともに、第二などは現在においてもよく見られる現象であろう。

また本書初出は1978年から81年とのことだが、今現在でも悪名高く、しかし徐々に再評価されつつある田中義一を原敬、幣原喜重郎に連なる協調外交路線にある人物と位置づけ、山東出兵も田中は消極的であったが、居留民が現地中国政府からの徴税逃れのために出兵に圧力をかけたという関寛治の論文を引用し、私的利益による国策の影響を批判的にとらえているあたり興味深い。

また「個人に対するテロが歴史の進行を大きく変えることはないという一部史家の説は間違っている。残念ながらテロは歴史の動向に不吉な影響を及ぼす。大変よくない方向に国運をへし曲げるのである」(331頁)など、かのヤン・ウェンリー元帥がユリアン・ミンツをたしなめた発言を否定する名言などもある。

また、本書で描かれる昭和初期の政治を見ると、この時期の「国体明徴」のテーマは「天皇」であるが、現在のそれは「あの戦争」なのかも、と思える。両者ともに現実よりも理想やロマンを投影して、現実を否定しているあたりが似ている。猪木氏といえば、以前かの田母神論文を最優秀賞に選んだ渡部昇一氏に自民党議員の歴史観に大きな影響を及ぼしていて困った存在と批判されたが、そうした流れの一環なんだろうな、と思わせる。

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2008年11月14日 (金)

山田風太郎『幻燈辻馬車』上下、ちくま文庫、1997年

時代は明治初期。主人公は元会津藩士で妻を戊辰戦争で薩摩将校に死に至らしめられ、息子は主人公と共に西南戦争に薩摩への仕返しとばかり従軍したが戦死。その後は息子の残した孫と共に辻馬車を生業としている。その平和に暮らす祖父と孫の中に、政府による苛烈な弾圧にあっていた自由民権運動壮士たちと出会い、彼らの起こす事件に巻き込まれていく。。

『忍法創世記』とはうってかわって、こちらは名作。実際はとてつもなく強い剣豪であるにもかかわらず、戦いは西南戦争で懲りた復員兵士である主人公はまるで『壬生義士伝』の主人公のような哀感漂う人物造形をしていて、素晴らしい。また、『戦中派不戦日記』を読んで、やっと分かったが、風太郎先生の主人公が常に前時代の影響から逃れられず、新政府にはちょっかいを出しつつ反抗はせず、新しい人々(民権派など)に共感を覚えつつも全面的に献身はできないという非政治的な人物にするのは、本人が戦中派であるという呪縛から逃れられず、新時代の風潮や道徳に挑戦的な作品を世に出しからかい、選挙ではいつも共産党に投票しながらも細川護煕首相の「侵略戦争」発言に違和感を感じるという生き方そのものを表しているんだな、と。

本作では民権派の壮士について、史実を交えつつ、エンターテイメントしていく過程で勉強になる。あと「明治忠臣蔵」では、後藤新平がずいぶんと奇怪な人物として描かれていて面白かった。

登場する主な歴史上の人物

「幻燈辻馬車」

三遊亭円朝、4代目橘家円太郎、三島弥太郎、大山信子、山川健次郎、赤井景韶、花井お梅、八杉峯吉、来島恒喜、川上音二郎、川上貞奴、松旭斎天一、伊藤博文、徳富猪一郎、中江兆民、田山花袋、土肥庄次郎(松のや露八)、坪内逍遥、西郷四郎、嘉納治五郎、大山捨松、大山巌、斎藤歓之助、斎藤新太郎、河野広中、三島通庸、錦織晩香、志賀直道(三左衛門)、志賀直哉、鯉沼九八郎、琴田岩松、原胤昭、松田克之

「明治忠臣蔵」

相馬誠胤、戸田京子、志賀直道(三左衛門)、錦織剛清、後藤新平、陸奥宗光、志賀直哉、星亨、

「天衣無縫」

広沢真臣、福井かね、起田正一郎、安藤則命、大久保利通、木戸孝允

「絞首刑第一番」

山田吉亮(浅右衛門)

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2008年11月13日 (木)

山田風太郎『忍法創世記』小学館文庫、2005年

時代は南北朝末期。長年宿敵関係にあった柳生と伊賀の和解を実現するために柳生の三兄弟と伊賀の三姉妹の婚礼の儀が行われた。しかし、その後、柳生には中条兵庫守が、伊賀には世阿弥が現れ、北朝方に奪われようとする三種の神器を護るため、前者には剣法を、後者には忍法が伝授されようとしていた。そして、その背景には南朝併合を企む足利義満の陰謀があった。。

というような内容。自己の作品管理に厳しい風太郎先生は、この作品に不満を持ち、生前単行本化しなかったという。その理由の一つとして三種の神器を扱っていたからだとかまことしやかにささやかれていたようだが、はっきり言って風太郎先生の方針通り、あまり出来のいい作品ではなかったから、というのが理由だろう。

忍法ブームを作り出した風太郎先生の満を持しての伊賀忍法創世の物語にしては物足らない。私は大昔に風太郎先生の『婆沙羅』を読んで、あまりのつまらなさに風太郎忌避の傾向を作って、人生の大きな部分を損した気になったが、やはり室町ものは難しいのかな。風太郎ファンなら読むべき作品だが、最初にこれを読んでしまったら、ずいぶん不幸な風太郎体験になってしまうだろう。

登場する主な歴史上の人物

中条長秀、世阿弥、足利義満、後亀山天皇、細川頼之、日野業子など。

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2008年11月12日 (水)

山田風太郎『同日同刻』ちくま文庫、2006年

日米の開戦の日である昭和16年12月8日と終戦に至る昭和20年8月1日から15日までの同日同刻の記録を編集したノンフィクション作品。

これを読むと12月8日午前7時、徳富蘇峰は「皇国に幸運あれ、皇国に幸運あれ」と書きつつ、『近世日本国民史』で「征韓論」を書き、「若し征役直ちに利を得るといえども、その得る所、恐らくはその失う所を償うに足らず、況んや遠征歳月を経るに於てをや」と大久保利通の意見書を紹介していた。その一時間後には松岡洋右は三国同盟を一生の不覚として「僕は死んでも死にきれない」と泣き、戦後広島の原爆慰霊碑に「過ちは繰返しませぬから」と書いた旧制広島高校の雑賀教授は「頓狂な声で〝万歳〟を叫んだ」。そしてその頃、もっとも落ち着いていたのは、ルーズベルト米国大統領だった。

言論人である蘇峰と歴史家である蘇峰との相違や、日米関係に決定的な打撃を加えた松岡の涙、日本が狂喜し米国政府高官たちが慌てふためいているところ、悠然と構える大統領というように、ここに歴史の皮肉がみられる。先の田母神論文でルーズベルト陰謀説を非難していたが、ルーズベルトは追い込んだのだし、ある程度の情報は得ていただろうが、それを陰謀と唱えるのはずいぶん情けない。ルーズベルトの戦略勝ちであり、仮に非難するとすれば、それは日本人ではなく、米国海軍の遺族だろう。

しかし、8月の記録には身をつまされる。原爆の記録は、悲惨としか言いようがない。具体的には書かないが、これほどの惨事と恐怖の現場を体験し目撃した人たちがさらになお生き続けて日常生活を営んでいたというのに妙な驚きを感じてしまう。人間というのは、強い生物なんだな、と。戦中を生き抜いた人々は我々が想像できない強靭な精神力を持っている。

しかし、この時期に至るまで「一億玉砕」を叫び、「2000万の日本男子が特攻すれば、必ず勝利を得る」という東京の軍将校たちの精神構造とは如何ばかりなのだろうか。正直、よく分からない。それを分からない狂信者とするばかりで目を閉じても何も得るところはない。実際、狂信者はいただろう。しかし、ソ連が攻めてくると情報を得るとさっさと逃げてしまう関東軍のような姿を見ると、逆に人間らしく、まともに見えてしまうと思うと、やはり徹底抗戦を唱える軍の主張とは、自らの失敗を認め責任をとらされ、非難されることを恐れただけに過ぎないように思える。その点、最後までゴネて首相や外相を困らせつつも陸軍の暴発を抑え、玉音放送を前に自決した阿南陸軍大臣は立派である(どうでも良いが、阿南大臣は自決後、介錯を拒み、しばらく生きていたが、最後に義弟竹下中佐が頚動脈を短刀で切ったというが、こういうのは刑法的にどうなっていたのだろうか)。徹底抗戦を唱えつつも生き延びた人々はおそらくゲリラで死なすのは一般ゲリラで自分は頃合いを見て生き残る手合いだろう。こうした責任回避の官僚的習性をもった人々までも擁護しかねない大東亜戦争肯定論は有害だろう。

こうしてみると戦後の日本国民が軍事アレルギーになったのもうなずける。散々、偉そうにしていた関東軍が逃げ出すのを目撃しているわけだし、戦陣訓を示達した当時の陸軍大臣で日米戦争の象徴となり最後まで戦争継続を訴えていた東條英機が逮捕直前まで自決せず、しかも自決に失敗しているのを目の当たりにしているのだ。戦後教育や東京裁判のせいにしてはいけないだろう。

そんな中、さわやかなエピソードは、広島の第二総軍の教育参謀李鍝公殿下が原爆で死亡し、その後を受けてお付武官吉成弘中佐が殿下の死の直後に病院の芝生に正座してピストルで殉死したことだ。私はこの話を初めて知ったが、李鍝公がそれだけ立派な人物だったのだろうが、それを受けて殉死した日本軍人がいたことに驚き、感動した。

しかし、終戦の日(敗戦の日は14日)の記録でやはり白眉なのは著者山田風太郎自身の記録だろう。玉音放送を町の大衆食堂で聞いていた山田誠也は放送の難解さから「宣戦布告」の放送でしょう、と問うおかみに

「済んだ」/と、僕はいった。/「おばさん、日本は負けたんだ」/「く、口惜しい!」/一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。はげしい嗚咽の声が、そのふるえる肩の下から漏れている。みな死のごとく沈黙している。ほとんど凄惨ともいうべき数分間であった。/四人は唖のように黙ったまま外へ出ていった。明るい。くらくらするほど夏の太陽は白く燃えている。負けたのか?信じられない。この静かな夏の日の日本が、今の瞬間から、恥辱に満ちた敗戦国となったとは!/過去はすべて空しい。眼が涸れはてて、涙も出なかった。

誰も有名人が出るわけではなく、学生とまったく市井の人々の雰囲気を表していて、この国の多くの場所で見られたであろう情景を映し出している。それに比べて、「私は歌いだしたかった」と書く、加籐周一の自伝は同じ医学生でもこれだけ違うのかと思うほど、なんとも共感しがたい、つまらない記録である。帝大生と私大生の違いだろうか。

風太郎先生の底の深さを感じさせる作品で、しかも資料に語らせる力強さを感じさせる。

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2008年10月30日 (木)

猪木正道『評伝吉田茂1星雲の巻』ちくま学芸文庫、1995年

いまだご存命の長老学者(今年94歳)の吉田茂を「自由主義的保守主義者」として論じた古典評伝。

第一巻では幼少から大正時代まで。外交官の評伝というわけで国内政治よりも国際政治の観点から、また著者が繰り返し「自爆戦争」と名づける日米開戦を意識して、国際協調路線を評価軸としている。そのため、国内政治的には評判の悪い山県有朋や寺内正毅も比較的評価が高い。昭和天皇への崇敬の念が高いが、昭和期以降の歴史に極めて厳しいあたりも昨日の田中清玄と同様で戦中派のちょっと上ぐらいの歴史観が垣間見える。

「ほんものの保守主義は、左右の急進主義におる挑戦に対する応戦という形でめざめるのだ」(318頁)

「外交交渉で、相手の立場を理解せず、自分の国の主張だけをただ強硬に押すというのでは、やがて気がついた時には、まわりの国は全部敵にまわっている、ということになりがちだ」(334頁)

とか保守主義という固定されたイデオロギーがあるかのように、「それでも保守か」みたいな言説がある中で傾聴に値する。と、オールド「保守」の猪木史観をしばらく堪能してみる。

余談だが、317頁「明治天皇がアルフィース・トドハンターの大著『英国における議会政治』を有栖川宮熾仁親王に貸与、云々」と木村毅『明治天皇』を注につけつつ書いているが、この「トドハンター」って、Alpheus Todd On Parlamentary Government in England (1867 -69)のことじゃないだろうか。ちなみにトドハンターというのはIsaac Todhunterという数学者(?)の本が明治期にいくつか訳されているようだが。

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