「ポスト小泉」最有力候補の安倍氏の単著である。
内容的には、彼の思想の原点としての家系、愛国心、安全保障、外交、社会保障、教育とこれまでの彼の政治活動や主張に沿った内容で、それらを詳しく検討する必要はないだろう。しかし、大まかに言っての感想としては、かなり「リベラル」なのではないか、ということだ。
「リベラル」というのも大変議論のある概念で、彼の著書もまず最初に「「リベラル」とはどんな意味か」から始められ、ニューディールを端緒とする「リベラル」とは一線を画する「開かれた保守主義」と自認している。現在の政治的対立軸は、「財政的リベラル―財政的保守」と「社会的リベラル―社会的保守」という整理の仕方がなされており、財政的リベラルとは公共事業などを増やし雇用を創出し市場という意味での市民社会にある個人を国家が支えるという立場であり、財政的保守とは国家は市民社会に介入せず個人の行動を市場に委ねることで経済成長によって個人の生活を豊かにするという立場だ。また、社会的リベラルとは、社会的単位を個人に置くことで経済的ではなく価値観における自由を重視し様々な局面での機会の平等を形成しようとし、社会的保守とは伝統的な制度である家族や共同体、伝統的な価値観である義務や責任を美徳として擁護する立場だ。
安倍氏の立場は、「財政的保守―社会的保守」という如何にも保守主義者らしい相貌が見える。しかし、一方で安倍氏はこの区分では「社会的リベラル」に該当するであろう社会保障をかなり重視する主張も行っている。そもそも社会保障とは、ドイツ帝国の宰相ビスマルクが国民の支持をブルジョワ政党に支配された議会ではなく、官僚組織の頂点にある皇帝に調達させるための手段として採用された行政国家としての理念に始まるものという。そのため、国家主義に親和性を持ち、安倍氏のイメージに適合するものではあるが、現在の文脈では生れた家族や性別、人種などでのハンディキャップを埋める機能を期待されており、これら生来のものもしくは社会的文脈とは切り離された個人を保障するものだ。つまり、親や妻、夫、子供、共同体に期待するのではなく、あくまで各個人が個人だけで生きていける状態をつくるものが社会保障というわけだ。福祉国家のモデルとして言及される北欧諸国は、家々が点在しており、また個人主義志向が強いために国家に頼らざるをえなかったという点が指摘されている(尾崎和彦『北欧思想の水脈』世界書院、1994年)。
これだけをもって国家や家族を重視する安倍氏をリベラルとはいえない。しかし、現在の先進国における福祉国家は財政的な問題で完全な個人に立脚した福祉国家は不可能であり、国家が完全な保障は望めない。そのため、リベラルですら家族の再興を訴え、社会保障を家族に肩代わりさせることで財政の縮小を図っている。これはリベラルすら、新保守主義のサッチャーやレーガンの方向性と近いものがあり、安倍氏もその位置にいるのだ。
また、デヴィッド・ミラーら、近年のナショナリズムの再定義を行う立場のリベラルが主張するところは、あまりの個人主義化は社会保障を成り立たなくさせるおそれからとも思える。なぜなら、国家は国民に納税の義務を課しているが、もしある個人が国家による保障など必要のない生活で暮らしているならば、何故自分の資産の一部を自分とは関係のない他人を助けるために税金を支払わなければならないのか、という疑問を生じさせる。このような個人、しかも多くの税金を負担しているものから徴収できないとなれば、国家は国内の恵まれない人々を保障できなくなってしまう。それはリベラルの価値観から容認できるものではなく、各個人の連帯を確実にするためにもナショナリズムは必要となってくる。つまり国家は必要であり、最低限の言語、歴史、国境を同じくする人々への連帯や同情を維持しなければならない、ということだ。安倍氏の国家擁護は、この意味からもリベラルに容認されるだろう。
現在の政治思想では、リベラルと保守との相違は程度の問題とされてきている。両者の相違は、政治勢力が伯仲している際に相手を攻撃する言葉ぐらいの意味しかない。現在の安倍氏の位置とは、そのような状態にあるのである。
このように安倍氏の著書から読み取れるのは、現在の政治思想レベルにおいて、かなり中道よりに移動していることである。これは、自民党が都市中間層への支持を期待する都市型政党に生まれ変わった過程と合致する。従来の保守政治家の政策志向は、地方の再生としての公共投資や中小企業対策など、企業経営者向きのものであったが、安倍氏の著書にはそれらの言及はない。都市中間層にターゲットを絞った政治姿勢を安倍氏は目指している。がんばった者が報われ、脱落した物には保障し、より国家への保障を求める者には強い国家を目指すことで心情的に満足させる。マルクス主義者なら、これこそファシズムだというかもしれないが、現在において最も支持を集める方向なのである。
最後に先日、「昭和天皇メモ」とやらが発見されたので、天皇観および靖国問題にも言及しておく。日本の保守を規定する一つの基準に天皇への崇敬心、という特殊事情がある。安倍氏も著書で天皇にふれているように天皇重視姿勢は持っている。さらに歴史観も保守の重要なメルクマールで、大東亜戦争を含む過去の歴史に対して同情をもつ、または連続したものとして捉える、というものがある。靖国参拝問題は、明治国家と現在の日本との連続性を容認するか、否定するかという問題に絡んでくる。これも安倍氏の著書で縷々述べられており、今ホットな話題であるA級戦犯が祭られている状態でも参拝は可能という立場を明確にしている。
そこで入ってきたのが「昭和天皇メモ」だ。それには、天皇が参拝をやめたのはA級戦犯合祀が原因であるということが書かれている。このメモで個人的に興味深いのは、A級戦犯の中で東條ではなく、松岡洋右と白鳥敏夫が名指しされていることだ。これは、昭和天皇が日独伊三国同盟を重要視し、大東亜戦争はその結果に過ぎないという歴史観、政治観が垣間見えるように思える。しかし、ここではそれは問題ではない。日本の保守層が重視する天皇と現在の靖国に齟齬が現れたという点だ。この点を安倍氏はどのように考えるだろうか。
私は現在の日本人の著書を読む際に、著者の思想傾向をみるにあたってまえがきやあとがきの年号表記に注目する。つまり西暦か元号かということだ。現在では西暦が主流になっているが、そこをあえて元号表記する人には何らかのメッセージが含まれていると考えられるからだ。西暦は、もともとはキリスト暦ではあるが、宗教を否定する共産主義国家でも表記は西暦にしたということで、その臭みは消えて一般的な時間表記になった。それに対し、元号は天皇の権力が低下した中世や近世においてもその決定は天皇が行なったということからも分かるように、天皇が日本の時間を支配していることを表しているものだ。だから元号使用には天皇に対する何らかの崇敬心の表れと見ることができる(もっとも、元号自体の淵源はシナ文化にあったので、これをもって日本主義・天皇主義を語るというのはそもそも弱いわけだが、これは良しとする)。
安倍氏の今回の著書はどうかというと、何と「二〇〇六年七月」なのである。これはちょっと驚いた。如何にも現在の保守政治家を代表する安倍氏が元号を使用していないのである。そういえば、戦後政治において右翼の大物と思われていた中曽根康弘氏も実は年号表記は西暦なのである。中曽根氏は自らが大統領的首相を目指した理由として、吉田茂が「臣茂」と自らを位置づけたことへの反発があったからだと、どこかで述べていた。西暦使用もそのあたりに理由があったのかもしれない。
そこで安倍氏である。天皇がらみで言えば、著書の中で「天皇制」という用語を使用している。以前書いたように、「天皇制」という言葉は昭和初期にソヴィエトのコミンテルンがその世界戦略の一環として日本を位置づけるために作った用語で、「天皇制」の後には「打倒」や「廃止」が来るのが正しく、「擁護」というのは来ない。このような現在普通に使われている「天皇制」という言葉にこだわるのは瑣末ではあるが、保守にとっては結構センシティブな問題なのである。しかも、安倍氏は「天皇制」を「天皇制度」と読み替えようと訴えた坂本多加雄に言及しているにも関わらず、「天皇制」を使用している。ここから読み取れるのは、安倍氏はナショナリストではあるが天皇主義者ではないということだ。
以前、「新しい歴史教科書をつくる会」の運動華やかりし頃、谷沢永一氏が彼らには天皇への崇敬心が足らないとして批判していた。運動を支えていた市民の皆さんも天皇にはそれほどの関心を示していなかったらしい(小熊英二・上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム』慶大出版会、2003年)。つまり、現在の保守運動は「天皇抜きのナショナリズム」ともいえる現象が見られるのだ(もっとも、皇室典範問題で男系維持を訴えたのも同じ層なのかもしれないが)。安倍氏の位置もそこにあるのかもしれない。
近年、憲法改正問題で今上天皇はおそらく9条を支持しており、尊皇心ある保守政治家に憲法の改正などできるのか、と皮肉交じりで述べる護憲派がいる。このように現在の保守運動は、天皇主義とナショナリズムもしくは民主主義と言い換えてもいいだろうが、この両者をどのように兼ね合いをつけるかにも関わってくる。安倍氏の立場は、おそらくナショナリズム=民主主義の側にあるのだろう。男系維持問題もそうだが、現在の保守は、制度としての天皇は重視するが、天皇個人への忠誠心はそれほどあるものではない。やはり民主主義者なのである。そのため、天皇個人が靖国参拝や憲法改正に反対しようが、関係ないのである。これは丸山眞男以来の戦後政治学の成果ともいえる。もはや天皇に日本人を縛る力はない。いまだその幻想を引きずっているのは、左派の方かもしれない。
おそらく、安倍氏は「昭和天皇メモ」に影響を受けずに靖国参拝をするであろう。機会と勢いがあれば9条改正にも着手するであろう。これまでみてきたように安倍氏は、政策においても思想においても、戦後政治学、政治思想の一つの結節点にある人物だ。実際の彼の手腕は未知数だが、彼に期待している旧来の保守は裏切られるであろうし、彼を警戒する左派も旧来の意識を払拭して戦略を練り直さなくては乗り越えることはできない。そういう人物を首相に据える可能性が高まったという時代認識を我々はもつ必要があるのだろう。
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