田母神論文の件が、まだ気になる。この論文は、90年代以降の近代史ブームの最終形態が一部マニアの目ではなく、全国放送や全国紙を通して一般の人々にその歴史観を知らしめたという点で画期的な事件だった。
90年代から2000年代初期に何故近代史ブームが起きたかといえば、宮沢喜一内閣の「従軍慰安婦」に関する「河野談話」、細川護煕首相の「侵略戦争」発言、村山富市内閣の「村山談話」と段階を踏んで政府が歴史について言及するようになったことをきっかけとして、従来政府を支持してした保守層が政府に対する異議申し立てをするようになったからだろう。それまでは政府=自民党は現在の眼から見ると普通の保守政権に過ぎなかったが、左派からは気を許せばいつでも「戦前」に戻そうとする危険なものだった。そのため、左派は自民党自体はもちろん歴史観に関しても批判を繰り返してきたが、右派もしくは保守層はそれから守ることに終始して政府自体を攻撃することはあまりなかった。それが上記の政府の発言により、右派までも反政府に回り、右派でも左派でもとりあえず反政府的でありたいという心情を持つ人々の心をつかんで右派的歴史ブームが起きたといえるのだと思う。
では、なぜこうした反政府的心情を左派が吸収できなかったといえば、簡単に言えば、左派の議論が難しかったこと、一般人の感覚からいえば自分は日本人であるという所与の心情が強くあるものだから過去であっても自分が属する共同体をサディスティックにおとしめる左派の議論は受け入れられないという気分があったのだろう。前者に関しては、一般人は専門の研究書は読まないし、左派研究者の啓蒙的著作が読めるのは岩波新書だったり、青木書店の本だったりするのでそれですら敷居が高く感じてしまう(しかも岩波書店は返品を受け付けていないので、地方の書店にはおいていないことが多い)。一般読者はユダヤ人陰謀論などの著作と並んでいる研究者よりも評論家、作家の作品の方が読みやすいし手に取りやすかった。後者に関しても、左派研究者や言論人は、「戦前」との連続性を感じさせる自民党的なものを自分たちとは全く異質なものと考えて、それらが守ろうとするものを攻撃することに急で、多くの国民が「戦前」との連続して生きていることや自民党を支えているという状態を無視して、彼らに不快感を与えていることに気がつかなかった。
また研究者は別として左派政治家や活動家、言論人の歴史知識もかなり粗雑だったことも右派支持拡大を手伝った。90年代後半に慰安婦問題が社会問題となり、多くの情報を皆が共有し始めた時点でさえ、テレビの討論番組で社民党幹事長だった伊藤茂氏が慰安婦問題に関して「トラックに乗って人狩りみたいなことをした」と発言し、同席していた大嶽秀夫京大教授に「それは嘘だと思います」とたしなめられ、驚愕した顔をしていたのを記憶している。この時期にしてテレビでこんなお粗末な発言をしてしまうあたりに左派への風当たりを強くしてしまう要因があった。
そんな左派の失策を土台にして90年代に自由主義史観研究会の『教科書が教えない歴史』が世に出て、小林よしのり氏の一連の活動や『新しい歴史教科書をつくる会』の誕生となり、オピニオン誌では『正論』『諸君!』が発行部数を拡大した。この動きも最初は極めて穏健なものだった。『教科書が~』は『王様のブランチ』でも紹介されていたぐらいだったし。
慰安婦問題の研究的バックボーンだった秦郁彦氏のそれも人狩り的なものがないと論証し、実は慰安婦には日本人の方が多かったと論じたに過ぎない。逆にそれまで流布していた軍に勝手に売春業者がくっついていただけと粗雑な認識を批判し、軍の関与は当然あったが、それが賠償問題に発展するかは別問題だとし、法的責任は免れるが、道義的責任はあると論じているように私には感じられた。慰安所に行列をなしている兵士の姿は復員兵たちには珍しくない光景だっただろうし、『兵隊やくざ』のような昔の映画を見れば、普通に慰安婦は出てきたりするのだから、一般の人には当然の存在だった。それに賠償問題や政府の責任問題に発展するのにストップをかけたのが秦氏の業績であり、慰安婦の過酷な状態を軍が黙認し、または業者に斡旋していた事実はあったのだから、道義的責任は免れないというのが秦氏の立場だろう。しかし、いつの間にか右派側では法的問題だけではなく道義的問題を慰安婦問題には存在しないかのような論調になっていった。
『新しい歴史教科書をつくる会』の教科書も今の右派の主張に比べればずいぶん穏健である。そもそもは「慰安婦」という「性」に関する生業もしくは制度を中学生に学校の授業で教えるのが適当かどうか、という問題であって、慰安婦の研究や事実を否定するものではなかった。また、近年では保守を計る指標とされる支那事変中の「南京事件」に関しても「日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た」と記し、東京裁判の項で内実について議論の余地はあるとしながらも事件自体は否定していない。というのも「虚構」説の姿を消したと評される『石井射太郎日記』の編者は教科書の監修・執筆者の伊藤隆氏であり、事件そのものを否定するには歴史研究者の常識では無理があったのである。
しかし、その後こうした右派・保守運動は先鋭化していく。小林よしのり氏は従来の「自虐史観」の相対化のため『戦争論』を書いたが、その後は単なる相対化ではなく「大東亜戦争肯定論」になってしまった印象を与えている。「南京事件」に関しても捕虜、投降兵、便衣兵など区別して法的に「虐殺」とされるものをあげていくと「なかった」となり、否定論に傾くが、多くの非武装の国民軍兵もしくは南京市民を「殺害」したことは否定していないようだから、「なかった」というメッセージを送るのはミスリーディングになるのではないかと感じたものである。法で考えるなら、シナ古代史の秦の白起による趙兵捕虜40万人生き埋めも、項羽の秦兵捕虜20万人の生き埋めも「虐殺」ではないんだろう。ここにも法的責任と道義的責任の問題が生じているが、道義的責任も否定する話になってしまっている。また当初は穏健だったはずの藤岡信勝氏も「大東亜戦争肯定論」者としての立場を確実にし、「南京事件」否定の東中野修道氏などと共に論陣を張り始めた(私は自由主義史観に関しては、最初の方しか知らなかったから、「自由主義史観」=「大東亜戦争肯定論」という決め付けに違和感を感じていたが、どうやらそれが正しいらしい)。おそらく単なる啓蒙団体に過ぎなかった自由主義史観研究会が政治団体への変異したために過激化したのだろう。
こうした流れの中で、それまでの保守からは逸脱しつつも穏健右派だった彼らが、極右になって「つくる会」ぐらいまでは着いていけた人も離れ始める。というのも、こうした近代史ブームは、単に彼らの議論に耳を傾けるだけの消極的な人だけではなく、能動的に歴史を学ぶ素人が増やしたことにある。そこで得たのは、極右的議論とは異なる歴史研究の厚みであり、非歴史研究者たちが話していたものが歴史研究のプロたちに一顧だにされていない現実だった。そこで学んだ人々が今回の田母神論文に冷笑している下地になったのではないだろうか。
しかし、こうした極右の突出ぶりと保守層との乖離は今回の事件までは明るみに出なかった。というのも、彼らをつなぎとめていたのは中韓からの「歴史認識」攻勢だった。極右の議論はついていけないものの、外国からの圧力で歴史を押し付けの認識を強要させられるのは、もともと反体制的で天邪鬼な保守層には我慢ができない。そこで小泉純一郎政権までは共闘できた。しかし、今回の事件に関しては中韓はほとんど問題にせず、静観を決め込んだ。そのため田母神論文に対する姿勢は、冷静に日本国内で批判することが可能となり、一部のマニアが問題ないとするのみで、歴史に興味のある人ほど支持がないようだ(yahooでは6割近くが支持と田母神氏はいっていたが、、)。中韓は自分たちの反発が日本のナショナリズムに火をつけるだけだと学んだようである。
さて、今後はどうなるか。90年代の近代史ブームは、左派の権威を打ち抜いた。これは評価してよいと思う。しかし、00年代になって先鋭化して極右化した議論も突出しすぎたし、中韓の反発がなくなったことで賞味期限が切れた。とすると、10年代は冷静で着実な歴史の検証が行われていくのではなかろうか。そこでは戦争責任を声高に叫ぶことも、日本の過去を過度に肯定することや汚点を否定する方向ではなく、何故あんなことが起きたか、どうすればよかったか、など事実に基いた議論が行われていくだろう。そこにはなんらエモーショナルな気分はない。そのため、政治的な思惑があって議論が行われることはなくなる。つまり、ブームは起きない。そして、20年費やしてやっと「歴史認識」問題は終わるんだろう。田母神論文事件は、最後の徒花として記憶されるんじゃなかろうか。
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