岡義武『山県有朋』岩波新書、1958年
「閥族・官僚・軍国主義の権化」と悪名高い山県の評伝の名著。
山県が歿した時、『東京日々新聞』が「大隈侯は国民葬。きのふは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と見出しを出すほど、当時から不人気な人物で今日でも先のような評価の彼の生涯を、人生、政治・外交観、歌人としての側面など、あますところなく描いている。
本書の特徴は、著者の評価をほとんど交えず、叙事文には序はいらぬ、という清代の史論家の章学誠よろしく、淡々と史料に基づき論述していく点で、そこはもどかしいが、著者の誠実さを感じさせる。
興味深い点は、やはり徳富蘇峰が評したように山県は「穏健な帝国主義者」であり、外交政策はとにかく慎重な強調外交でとりわけ英米を重視した。有名な「主権線」、「利益線」の演説もそもそもは「利益線」たる朝鮮半島を日清英独の共同で独立国たらしめようとする意図で、述べたものであり、朝鮮半島の支配を否定はしていないが、積極的に推し進めようとする意思はない。また、第二次大隈重信内閣の悪名高い「対華二十一カ条要求」は加藤高明外相が元老に相談せずに行ったもので、その当時、世界大戦後、欧州勢が共同して東アジア進出してくるという見通しを立てた山県は袁世凱政権とロシア、アメリカと強調しなければならないと考えていたので、激怒した。某外交官出身の歴史家がこれを山県の意見を取り入れざるを得なかったと悪名を山県に押し付ける外務省史観を提示していたが、まったく誤りである。さらにシベリア出兵も山県は慎重で、アメリカが共同出兵を打診してくるまでは、認めなかったし、カリフォルニア州で「排日移民法」が成立した際には金子堅太郎を派遣して善後策を立てさせたいと考えたりした。
負の側面としては、明治20年の伊藤博文内閣で内相だった山県は保安条例を公布して、自由民権運動を徹底して弾圧した。また政党内閣を忌避し、普通選挙は国体を変換させるとして終始反対の意向を示した。そのため、原敬との関係は、険悪であったが、原が政友会総裁に就任して原の方針が転換されると両者の関係が徐々に密になり、原内閣成立後は、山県は原を激賞した。これは、山県と原の対米英協調路線、労働運動への警戒、普選への慎重な態度などの共通点がそのようにさせたのだろう。
そして、原暗殺に落胆し、寝言で「何んだ。馬鹿。殺して仕舞え。馬鹿な。馬鹿な」と原が殺されている夢を見て叫ぶほどであったそうだ。これは股肱と思っていた寺内正毅が「もう60で子供ではないから」と山県に反旗を翻し、宮中某重大事件で反山県勢力が山県を失脚させたところ、原は山県を守り続けたという山県の孤独感が原への評価を上げていったところもあるだろう。
このような大正末期の山県閥の崩壊過程を見ると、山県死後の軍部の台頭は山県に原因があるのではなく、「下克上」=誤ったデモクラシーの新しい流れの影響にあったように思えてならない。考えてみれば、山県存命の時代は大日本帝国の黄金時代で、山県が政党内閣を反対したからといって彼を「悪」に仕立て上げる史観は安易なような気もする。昭和天皇は山県のような人物がいれば、あのような悲惨なこと(軍部の台頭、敗戦)もなかったであろうとしているのも本書を読めばうなずける。大隈内閣後、高橋是清が山県に組閣を強く勧めていたが、それが実現したら、どうなっていただろうか。あと五年、山県が生きていたら、どうだっただろうか、と本書を読むと山県を少しは好きになるか・も。
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