2008年12月11日 (木)

植原悦二郎『日本民権発達史』その2

第二章 明治の新政府

本章は、東京奠都と五箇条の誓文から始まる。植原によれば、前者は京都の住民と公卿の他は大して重要な問題とされず、後者も後年「我国の歴史に於いて殆ど革命的異彩を放てる重大な出来事」となったが、当時の国民一般から注目されなかったという。さらに後者は、歴史家、憲法学者らが我が国立憲政体の根源と主張しているが、そんなものではないと言下に否定する。

植原によれば、五箇条の誓文「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は単に新政府の諸藩士が佐幕派から単なる政権簒奪との嫌疑を避け、国内統一を共に協力して新政府を設立しようという熱意と誠意を天下に公表しようとしたに過ぎず、議会政治設立の宣言とは関係ない、ということである。本書でも述べられているが、周知のように後の民権派や大正デモクラシーの運動家が自分たちの主張の正統性を示すために言及したのが五箇条の誓文であり、さらに下って第二次大戦後のいわゆる「人間宣言」で昭和天皇は日本にも民主主義はあったことを思い起こさせるために冒頭に引用したということを念頭に置くと、民権の発達を説く書としても大正期のデモクラット植原のイメージからは意外な感じがする。この感は、植原同様にリベラル派の斎藤隆夫も著書『帝國憲法論』で述べていた時にも感じた(後の斎藤は日本の「國體」を表すものとして五箇条の誓文を挙げているが)。もっとも歴史的には植原の解釈が正しく、議会政治や民主主義を五箇条の誓文から取り出すことは政治的アジテーションに過ぎないが、さらには植原のこの著書は、日本の民権は上から与えられたものではなく、民衆が勝ち取ったものだと強調するための著作であると序文に書いてあるから、安易に政府側の声明に正当性をおくのは戦略的に望ましくないと考えたのだろう。そのあたりに、明治期の専制政府、昭和期の軍国主義との対決の中で正統性を天皇に求めて説得するという時代背景と、大正期の獲得するという意思との相違が表れているのかもしれない。

また、政府部内において立憲政体なる問題が主張されるようになったのは明治6年ごろの木戸孝允の建議書としているが、議会制自体は幕末以来の懸案事項で政府内で共通了解であるし、憲法に関しても明治4年の岩倉使節団に参加した時から木戸の調査目的となっていたことは周知の通りである。もっとも民選議院という発想は、現実的政策目標として現れていなかったのはいうまでもないから、植原の発言も間違いではないだろう。

第三章 民権運動

民権運動の嚆矢は、征韓論をめぐる政府内の分裂から、板垣退助らが民選議院設立の建白書を提出したことにある、というのはよく知られているが、これに関しても植原は冷淡である。「這は征韓論の為めに敗北せし在野党が、世論は彼等の主張に同情して居つたにも係はらず、其主張の貫徹せられざりしことを憤激して、在朝有司を攻撃し、世人に訴へて其鬱憤を晴さんと企てし一手段であった」として、そもそも板垣、副島らは武断国権派で、政府の分裂がなければ、民選議院の話などでなかったであろう、と述べている。また明治14年の政変の大隈重信も自らの財政政策の失敗により低下した声望を高めるためと論じているあたり、あくまで明治新政府主導の民権発達を否定し、板垣・大隈という後の二大政党の首領の神話を否定して現実的な権力関係による政治過程を述べるというところに植原の歴史叙述の特徴があるように思える(つづく)。

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2008年12月 6日 (土)

植原悦二郎『日本民権発達史 第壱巻』その1

植原悦二郎は大正・昭和期の政治家。前半生は、米国・英国への遊学・留学をし、帰国後は私大を中心に政治学・憲法学を講じ、天皇には統治権はあるが、主権は国民にあるという国民主権論を提唱した。これは親交のあった石橋湛山にも影響を与えた。その後、1917年犬養毅の求めに応じて、立憲国民党から衆議院選挙に立候補し当選。衆議院副議長まで務めたが、翼賛選挙では落選。戦後、鳩山一郎らと日本自由党を結成し、第一次吉田茂内閣で国務大臣として初入閣した。現行の日本国憲法には国務大臣として憲法改正案に副署しているが、非武装規定、衆参議院の同質性、地方自治制度の財源問題、憲法改正が困難というような論点から不賛成である旨を閣議で訴えたが、幣原喜重郎にたしなめられ、しぶしぶ署名したという。

そういう人物が、1916年(大正5年)に上梓し、1958年(昭和33年)に日本民主協会から再刊されたのが本書である。全5巻だが、後半はどうやら植原の筆ではないらしい。とりあえず、読んだ部分をメモ代りに少しずつ感想を書いてみる。

第一章 明治維新の政変

植原は、まず天皇の歴史から書き起こすがきわめて簡単に、最初期の天皇は政権を左右する軍事及び祭祀の実験を握っていたが、時代の推移と共に天皇の近親者に権力が移り、後に武士に統治権が左右されたというように「君主が親しく政権を左右し給ひし事実はないように思われる」という。しかし、一方で「名義上の統治者であった」ことから「政争以外に超越して泰然と在ましませしことと、皇室の連綿たりしことには、深き関係がある」と皇室の存続を願う者はその点を留意すべしと注意を促している。

徳川政権の特徴は、地方分権の専制制度であり、各大小名に領土内の統治権を付与し、封建的地方分権を確立していたが、一方で巧妙なる間諜組織によって、つまり外様大名と譜代大名、譜代大名間の相互監視による牽制を通して統治したことにあるという。それが我が国民の「陰険なる性格、熱烈なる嫉妬心及び島国的根性」を育てたという。

植原は維新の原因を「智的運動」すなわち学問の振興によるという。儒教的大義名分論による史学や国学の誕生による天皇の浮上、洋学の発展による鎖国主義の不可能性など。とりわけ前者の問題に関して、何故幕末期に政治的シンボルとして天皇が浮上したかは今もってもよく分からないそうだが、明治・大正期の歴史観においては儒教とりわけ朱子学の大義名分論が徳川統治を揺るがしたというイデオロギーの側面を指摘するものが主流派を占めていたのかもしれない。フランス革命を「ルソー主義」に原因を求める加籐弘之なども同様の歴史観を有していた。

植原によれば、幕末期の諸政治勢力=攘夷党、開国党、王政復古党や佐幕党も含めてすべての勢力が国内の統一、つまり封建的分権制度の改革という点で一致していたという。当時の欧米人の見解として、名義上統治権が天皇に奉還したとはいえ、軍備も財源も乏しい中央政府に何故諸藩は転覆を企てなかったのか、また財政的援助を惜しまなかったかに疑問を有していたという。しかし、外国からの圧力への恐れが、当時の人々には共通した認識としてあって、とにかく皇室を中心とした国内統一が至上命題だと考えられたから、だと植原は述べる。

また攘夷党が何故開国主義に移行するのに納得できたかといえば、神の如く思われた天皇が夷狄と見なされた謁見したという事件が影響したと植原は述べている。(つづく)

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